2023/10/11 日吉八王子神社





《日吉八王子神社由緒》
 日吉八王子神社の創建は、天慶3年 (940年、 平安時代中期)で、一尺一寸五分の戴冠立像 「国狭槌命 (日吉大社 山王七社の第四社である八王子宮の御祭神; 土地の神)像」 を奉った社祠がはじまりである。
 一方、 天正2年(1574年、 安土桃山時代) 初夏 滝山蔵王宮の別当大阿闍梨法印天神坊高盛は、北条氏照公の命を受け京都比叡山の守護山、 日吉山王七社中の八王子権現八王子城頭に迎えて奉斎し、 氏照はこの社号を日吉山王と称し、 八王子城 (天正6年、 1578年築城) の鎮護祈願所とし、 山根の総鎮守とした。
 氏照がなぜ比叡山の守護山、 日吉山王社を崇拝したかは、都が平安京に遷り、 京都が日本の中心となると、 日吉山王社が鬼門除けの社となることから、 当時、武家が一国の城主になるとその鎮護の神として分霊を遷し奉ったことによるものと考えられる。天正18年 (1590年) 6月、 八王子城の落城に伴い、 八王子権現は中絶する。
 一方、そのころ八王子修験衆の元締め的存在にまでなっていたのが本山修験 「島之坊」 である。 文禄2年(1593年; 参考資料 『八王子市史資料』 ) 八王子城で陣触れの法螺貝を吹く 「御陣貝役」 を勤めていた本山修験、法印島之坊俊盛は、 新領主徳川家康から除地を得て、 国狭槌尊像を奉ったこの社祠 (現在の日吉八王子神社)に八王子権現を勧請し、 日吉山王八王子明神社と称し、山王系信仰のすべてを総括した。 由井領山根 9万石 75ヶ村の総鎮守となり、 八王子拾五組宿の祈願所ともなった。 このことから、いかにこの神社が当時重要であり、 山麓地方に住む人々の信仰の中核をなしていたか、 山王信仰が八王子の地と古くから密接であったかが伺われる。
 寛文7年(1667年、 江戸時代前期) 5月、 代官高室四郎左衛門 手代小山次郎兵衛、桑原六太夫、 松村六郎左衛門、及び八王子山根横山惣町と共に再建。
 明治2年(1869年) 島之坊宿の役人、 石川喜右ヱ門ほか2名により再建。
 明治35年(1902年)、 昭和16年 (1941年) に改築された。
 その後、社名は明治維新神仏分離により、 日吉八王子神社となった。
 また、八王子の地名は、 八王子権現を奉り、 山王信仰の中心的存在であったこの神社から起こったとも伝えられる。




◆延命子育地蔵尊




◆あゆ塚



1716年 享保の年頃より 桑都浅川の鮎を宮に貢ぎし地なり年々歳々貢ぐ鮎は長さ四寸以上壱阡五百弐拾五尾 永く例とせし事名高くここにあゆ塚を建てて霊を慰めるものなり
享保の時代(江戸時代中期)より浅川で獲れた鮎をこの地から幕府に献上しており年々歳々その献上していた鮎の長さは四寸以上 壱五百弐拾五尾にも及びそのことは広く世間に知れ渡ることとなっていました その鮎の霊を慰めるために 昭和三十二(1957)年にここにあゆ塚が建てられました




◆鳥居



上空に飛行機が飛んでいた。




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