2023/11/07 花蔵院


『歴史  創建年代は不明である。元々は別の場所にあったが、後に現在地に移転したという。1293年(永仁元年)の津波によって記録が流されてしまったので、詳細は不明である。その後、1577年(天正5年)に賢融によって中興された。しかし1713年(正徳3年)の暴風雨と1855年安政2年)の安政江戸地震で堂宇は破壊され、以降は仮堂となってしまった。1914年(大正3年)にようやく再建された。
往時は境内とは別個に寺有地として6反8畝1歩(約68アール)の田圃があったが、農地改革で没収されてしまった。 』




◆大師堂




◆堂宇




◆公訴貝猟願成の塔(こうそかいりょうがんじょうのとう)



 江戸時代も後期に入った頃のことです。
 堀江 猫実村(浦安)と船橋村の漁師たちは、漁場の境界をめぐって争っていました。 船橋村では「三番瀬 (蛎内)は船橋村の漁場」と主張したのに対し、堀江・猫実村は「堀江・猫実村と船橋村の入会漁場」と主張して互いに譲らず、天明二年(1782)一月、評定所にまで及ぶ訴訟となりました。そこで堀江 猫実村では花蔵院の宥賢(ゆうけん)和尚を中心に対策を考えましたが、よい対策もなく困っていました。
 当時、猫実村に長三郎、長兵衛、善三郎という人物がいました。長三郎は一人で代官所に乗り込み交渉しようとしましたが、役人に捕えられ、同年九月に獄死してしまいました。
 友の死を知った長兵衛は、老中田沼意次に駕籠訴しましたが、その場で捕えられてしまいました。その後村人たちの嘆願により釈放されましたが、船で帰る途中、小名木川付近(江東区)で突如容態が悪くなり非業の死を遂げました。
 二人の友を失った善三郎は、日頃信仰している成田の不動様に二十一日間の願をかけました。 天明三年三月四日、善三郎はいつもどおり参拝し大雪の中を帰り始めましたが、吹雪が激しくなり、原木付近(市川市)で気力が尽き果て、その場で死んでしまいました。 三人を失った堀江・猫実村の漁師たちはより一層結束を深め、天明八年(1788)、この訴訟に勝訴したといわれています。
 この石塔は漁民の幸せを願って、村の発展に殉じた三人の冥福を祈るとともに、業績を長く後世に伝えるため「天明の三義人」として、明治二十二年(一八八九)、村人の浄財によって建立されたものです。




◆石塔




六地蔵




◆山門




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