2024/03/18 西武立川・拝島散歩 05 福生院/地頭井戸/熊川神社/杜の美術館/熊川分水/熊川分水四番

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福生

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◆地頭井戸



「伝地頭(でんじとう)井戸」
 この井戸は「地頭井戸」 と呼ばれ、江戸時代に徳川幕府の旗本(地頭)で熊川鍋ヶ谷戸地区を知行した長塩氏が、水不足に悩む領民のために井戸を掘り与えたとの伝承を持ち、昭和三十年代まで地域の共同井戸として使われていました。「地頭井戸」の伝承を持つ井戸は熊川地区に四ヶ所ありましたが、現在までに遺されたものは本井戸のみです。
 この井戸は地頭と村民の支配関係や当時の村落社会の構造を知る上でも貴重な文化財であり、後世に伝えるべき郷土の大切な文化遺産であることから、「伝地頭井戸」として、平成二十年七月二日に福生市登録文化財に登録されました。

井戸の移り変わり(参考)
明治のつるべ井戸
熊川村の森田浩一 (明治24年、 1891生)が描いた井戸の絵です。 浩一が府立二中在学時の明治39年(1906) に描かれました。 この絵から、 明治期の井戸は桶で枠がつくられていたつるべ井戸もあったことがわかります。

昭和の井戸
昭和30年代に福生の風景を描いた宮本雅夫の井戸の絵です。 覆屋に滑車があることから、 元はつるべ井戸であったものを手押しポンプに改良した井戸で、水の汲み上げ方式の変遷がわかります。

熊川の水事情
熊川地区は遅くとも江戸時代から続く集落です。 多摩川左岸の河岸段丘上に立地しているため、水利用が困難な村でした。村の共同井戸として使用された「地頭井戸」も、このような村の背景から誕生したのでしょう。明治二十三年(一1890)、玉川上水から取水した熊川分水が完成します。 分水は村民の飲料水と灌漑用水を確保し、また水車の動力源として村の近代化を促進し、村民にはかりしれない恵みをもたらしました。

熊川地区の水にまつわる文化財
熊川分水 (取水口)
熊川分水は熊川地区の家々の間を全長約2キロにわたり流れている水路です。

熊川神社 (大正時代)
熊川神社は古くは礼拝大明神と一呼ばれた熊川村の鎮守でした。本殿は市内最古の木造建造物で、慶長2年(1597) 銘の棟札があります。
昔、 多摩川に霊光が放たれ、そこで見つかった神像が祭神と伝えられています。

長塩氏の墓
江戸時代の熊川村は江戸幕府の直接支配する地域と旗本が知行する地域に分かれていました。 地頭井戸を掘り与えたと伝えられる長塩氏は熊川鍋ヶ谷戸地区を知行していました。

玉川上水開削工事跡(水噴士、福生市指定史跡)
水喰土は江戸幕府が承応二年(1653年)に江戸町民の飲料水不足を補うために行った玉川上水開削工事の失敗跡です。 この付近で水が地中に吸い込まれてしまったと伝えられていて、現在は水噴土公園内に堀跡が遺されています。

田沢氏の墓(福生市指定史跡、真福寺)
(田沢氏は長塩氏同様に徳川幕府の旗本で、熊川内出地区を知行していました。

日光橋(明治36年)
玉川上水にかかる日光橋の写真です。 アーチ状の橋の形状は、現在も橋の下部に残されています。






◆熊川神社

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◆杜の美術館



ご由緒
 文政八年に神主野口河内橋吉輝により、南の乙津幾八棟梁が再建する。村人の会議公的役所として使用する。明治時代神主野口重納により私塾を開き子供達の教育に資し学舎に供する。大正十一年神主野口伊織により大工乙津成一により修理する。同年より昭和三十五年迄、地区集合所に利用し、大東亜戦争には、日本空軍の落下傘の結所として活躍する。 昭和三十六年より結婚披露宴会場として生活改善運動の一環として使用する。
 平成八年此の建築物を修理して、杜の美術館として永久に保存し、後世に残し貴重な文化財を守る事が、私の責務と願い記する次第です。







◆熊川分水





福生市景観重要資源第1号 「熊川分水」
「熊川分水」は、 明治23年(1890年) に熊川地区の人々の生活用水産業用水・灌漑用水としてつくられました。熊牛稲荷児童遊園に隣接する玉川上水から水を取り込み、かつての熊川村の中を通って福生南公園東側のどうどうの滝から下の川に注ぐ、 幅約1.2メートル、 全長約2,075メートルの水路です。 「熊川分水」は地域の生活や産業になくてはならない用水として利用されるとともに、今では貴重な水辺の景観として、 また空石積みなど開削当時の土木技術が残る地域の財産として市民に親しまれています。
このように地域の歴史、文化、生活の特徴が残る「熊川分水」 は、 まちの景観づくりに重要な価値があると認められることから、 福生市まちづくり景観条例に基づいて 「福生市景観重要資源第1号」に指定しました。



熊川分水の歴史
 熊川分水は、玉川上水の水を牛浜幸楽園東側から取り入れ、奥多摩街道と並行するように熊川地域の中心を流れ、どうどう橋付近から下の川に流れ込んでいます。
全延長 約2000m
幅   約12m
水量  一日に約1000t

 承応三年(1654年)玉川上水が開かれました。 熊川地区は水が乏しかったため、人々は玉川上水から水を引きたいと考えました。
 寛政三年(1791年) 熊川分水の工事の願いが提出され、その後約百年の間、さまざまな難しい問題がありましたが明治二十三年(一八九〇年)にようやく完成し、きれいな水が流れ始めました。
 工事期間中に延べ七千人あまりの人が労働に従事しました。

◆分水の水は、まず各家庭の飲用水・生活用水に、そして水田に引く灌がい用水に、また酒造、製糸業などの工業用水にも使われました。水車も四か所にあったと記録されています。
◆経費は、一万五百余円(明治二十三年当時)と高額でしたこのうち七〇パーセントを熊川地区の実業家三人が負担し、残りの金額を百四十戸の家で負担したということです。

 当地域の人々は、この分水を『ホリ』と呼んで親しみ、水の浄化に努めてきました。先人が苦労した歴史の上からも、石積みや掘割の技術の上からも私たちが誇れる歴史的文化財です。
 きれいな流れの熊川分水をいつまでも大切に守っていき






◆熊川分水四番







続く。
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