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https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2024/04/26/180000
◆アケボノゾウ化石発見地・拝島水道橋
現地には説明版など見当たらなかった。
こちらに詳しい情報があった。
昭島市デジタルアーカイブズ-あきしま 水と記憶の物語:昭島の歴史
◆拝島橋
『形式は鋼3径間連続箱桁橋3連で、上流側の外回り(昭島市街、新奥多摩街道方面)と下流側の内回り(八王子市街、中央道八王子IC方面)の2車線の橋が2本並行する[1]。右岸の取り付け部は急なカーブとなっている。多摩川の下流側に八高線の多摩川橋梁があり道路橋としては多摩大橋がある。上流側には睦橋がある。 』
拝島橋 - Wikipedia
拝島の渡し
拝島橋の上流百メートルほどのところに、その昔、拝島の渡し”と呼ばれる日光街道の渡し場がありました。日光街道は、江戸時代初期の慶安年間(1648~52)に、八王子千人同心が日光勤番に赴く際の往還路として開かれた公道で、江戸時代を通じて上州(群馬県)方面と八王子を結ぶ重要な街道として機能していました。
この渡しの管理は拝島村によって行われ、数人の船頭さんが常駐して随時船を往復させていました。
もっとも、船を運行したのは春から秋にかけてで、冬の渇水期には数の船を流れに浮かべ、その上に板を渡した浮き橋に仕立てることもありました。文久元年(1861)の記録によると、渡し賃は平水時が一人二十四文、大水の時は割増料金を徴収する、といった定めがありました。
明治時代に入っても、なおさかんに利用され、昭和十年代には八王子~川慈(埼玉県)間を走る定期バスが、この渡し船を利用して多摩川を渡ったこともありました。しかし、明治後期から昭和初期にかけ、鉄道網・道路網の整備がすすみ、拝島の渡しは次第にすたれ、昭和二十年ごろにはほとんど利用されなくなり仮説の木橋が架けられて、細々と機能しておりました。
その後、昭和三十年、拝島橋が開通し、この地は再び重要な河地点となって今日に至っています。
◆拝島歩道橋
下は八王子街道。
◆白山神社