2018/04/08 新宿散歩 04 三遊亭圓朝旧居跡/旧内藤新宿町役場跡地/歴史と文化の散歩道/雷電稲荷/西条 八十/馬水槽

花園公園脇(内?)にある三遊亭圓朝旧居跡を見た後は新宿駅東口を目指す。
日曜日とあって人が多い。



三遊亭圓朝旧居跡




 この地は、幕末から明治時代にかけて活躍した落語家三遊亭圓朝(1839〜1900)が、明治二十一年(1888)から二十八年(1895)まで住んでいたところである。
 圓朝は、本名を出渕治郎吉(いでぶちじろきち)といい、江戸湯島の生まれ、七歳のとき橘家小圓太(たちばなやこえんか)の名で初講座をふみ、九歳で二代目三遊亭圓生門下となる、
 話術に長じ、人物の性格や風景の描写をたくみに表現し、近代落語を大成した。また、創作にも優れ、自作自演に非凡な芸を発揮し、人情噺の分野を完成させた。代表作に「塩原多助一代記」「怪談牡丹灯籠」「怪談乳房榎(ちぶさえのき)」「新景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)」「名人長二」など。今日、古典落語の名作としてよく口演される「文七元結(ぶんしちもっとい)」や「芝浜」も圓朝の作と伝えられる。
 屋敷地は約1000?、周囲を四つ目垣で囲み、孟宗竹の藪、畑、檜、杉、柿の林、同遊式庭園などがあり、母屋から廊下で続いた離れは「園通堂」と呼ばれ、圓朝の居室となっていた。






◆旧内藤新宿町役場跡地

役場跡地シリーズが出てきた!
やはり現地に説明板などは無い。




◆歴史と文化の散歩道

街道と内藤新宿・四谷大木戸


新宿追分から四谷大木戸跡に至る新宿通りはかつての甲州街道の宿場町、内藤新宿であった。
 元禄11年(1698年)内藤家などの屋敷地の一部などが収公され、宿場が開設された。内藤家は信州高遠藩主であり、現在の新宿御苑の地に下屋敷を構えていた。徳川家康の江戸入府にあたって江戸周辺地を検分し、家康を迎えたといわれ、以後江戸城西方の交通要所を警固した。宿場や関所とともに、幕府は江戸城下から出る主要街道の出口に人や物資を監視する木戸番所を設けた。甲州街道口、現在の四谷四丁目交差点にあたるところには四谷大木戸を置き、道の両側に石垣を気付いて木戸が設けられた。



雷電稲荷神社



弁財天



鳥居



鳥居




◆西条 八十




武蔵野なりしこの里の
昔のすがた偲ばせて
小畦の花のむれと咲く
ビルのネオンの赤き花


西条八十(1892〜1970)
東京で生まれ、早稲田大学英文科を卒業後、白秋らの新誌社で、象徴主義詩を数多く発表する。繊細巧緻で神秘的な作風が市の特徴である。大正末からは歌謡曲の作詞にも才能をあらわし、「東京音頭」、「王将」などで人々に広く親しまれた。




◆馬水槽






 十九世紀にロンドン市内で馬・犬猫・人間に飲料水を供給した石造品で、イギリスから贈られたものである。動物愛護の精神に基づく水飲み施設で、交通運搬と都市水道発展の歴史を物語る記念物である。





「みんなの泉」の由来

東京の上水道育ての親、中島鋭司博士が明治34年から欧米諸国を視察した際、ロンドン水槽協会から東京市に寄贈された貴重なものである。赤大理石製で上部は馬、下部が犬猫、裏面が人間用と、動物愛護の精神が息づいており、明治から大正にかけては当時の重要交通機関であった馬がよく利用していた。昭和39年の新宿民衆駅完成を記念して現在の場所に移転。その際、「馬水槽」と呼ばれていたものを一般より公募した「みんなの泉」と改称され、現在では新宿区の文化財に指定されている。




新宿駅の東口広場に「西条 八十」と「馬水槽」の史跡があるのにビックリした。
そしてこの広場に「ライオン広場」って名前が付いているのにもびっくりした。
いつもアルタ前の広場って言っていたなあ。
ということで、散歩終了し、新宿駅から電車で帰った。