2017/11/02 01 紀尾井町散歩 03 喰違見附跡/尾張名古屋阪屋敷跡/ガス灯/紀尾井坂

そういえばこの辺り、警察官が沢山居たなあ。
なんでだろう??



◆喰違見附跡




 左手の喰違見附跡は、江戸時代初期の慶長17年(1612)に甲州流兵学者の小幡景憲(おばたかげのり)によって縄張りされた伝わる、江戸城外郭門のひとつです。通常江戸城の城門は枡形門と呼ばれる石垣をめぐらしたものとなりますが、ここは土塁を前後に伸ばして直進を拒むという、戦国期以来の古い形態の虎口(城の出入り口)構造となります。
 この地域は、二つの谷に挟まれた、江戸城外堀の中では最も高い地形に立地するため、寛永13年(1636)築造の江戸城外郭門に先駆けて、江戸城防御の要として構築されたと考えられます。現在は一部土塁が削り取られているものの、その形状は保存されており、往時の様子を留めています。この遺構は江戸城築城史を捉える意味で重要です。





尾張名古屋阪屋敷跡






 この一帯には、江戸時代に尾張名古屋藩徳川家の麹町邸がありました。寛永14年(1637)に拝領してから、藩主や世嗣が一時的に居住するなど様々な使われ方をしました。
 尾張徳川家は、徳川家康の九男義直に始まる家で、紀伊家(十男頼宣)、水戸家(十一男頼房)と共に、御三家と称され、義直が年長で知行高も多かったため、御三家筆頭となり大名の最高位に位置しました。義直は、尾張一国と木曽の山林を領地としました。尾張徳川家は以後、加増を重ねた結果、石高はほぼ61万9500石となり、16代にわたって明治維新まで続きました。
 明治5年、この地域は紀伊徳川家・尾張徳川家・井伊家の頭文字を合わせて、「紀尾井町」という町名になりました。



文字がだいぶ薄くなっていて読みにくい・・・・。




◆ガス燈

またニューオータニの前に」戻ってきた。
九灯式のガス灯があった。




開業25周年記念「ガス燈」とあるが、ニューオータニ創業から25周年ってことでいいのかな?
ちょっと自信がない。




◆紀尾井坂




この坂を紀尾井坂といいます。「新撰東京名所図会」には「喰違より。清水谷公園の方へ下る坂をを称す。」、「喰違内坂を、紀尾井坂といふ、蓋しこの坂の両側に井伊三公の邸宅ありしがゆえに、各題字を取り名とせるものなりといふ。」と記されています。
 このあたりが紀尾井町と呼ばれているのも左記の理由からです。また坂下が清水谷なので清水谷坂の別の名もあったといいます。
 なお、明治十一年(1878)五月に内務卿大久保利通公が殺害された事件は、この坂ではなく、麹町清水谷(清水谷公園付近)で起きています。「紀尾井坂の変」と誤って伝えられているのは、灯火を持ち馬車を先導した人物がこの坂を上がっている最中に事件が発生したためです。




紀尾井町散歩はコチラで終了。四ツ谷駅に戻り、仙川に向かう。