2019/10/30 02 三ノ輪橋・浅草散歩 02 吉原大門跡/旧浅草新吉原江戸町二丁目/五十間道/見返り柳の碑/宝晃寺/地方橋/地方新橋

いわゆる吉原といわれていた地域。
・・・をかすめて南下する。
近いうちに樋口一葉記念館を訪ねる予定なのでその時に。
以前通ったことがあるが、男性でも一人歩きは怖い(w



◆吉原大門跡

商店街の街路灯に「よし原大門」とある。
特に説明板などは無かった。



◆旧浅草新吉原江戸町二丁目

吉原大門跡の近くに建っていた。

 元和三年(1617)幕府は日本橋置屋时東側(現日本橋人形町二丁目付近) に江戸では唯一の遊郭解説を許可した。 遊郭は翌年営業を開始したが葭の茂るところを埋め立てて造ったことから、はじめのころは"葭原(よしわら)”と呼ばれた。そして寛永三年(1626)に線起のいい文字にかえて吉原となった。明歴二年(1656)になると町奉行から、吉原を浅草日本提へ移転するように命じられ、翌三年に移転した。それから、をの付近は浅草新吉原と呼ばれるようになった。  日本橋に開設されたころの吉原は江戸町一丁目、二丁目、京町一丁目、二丁目、角町の五力町であつた。そのうちの江戸町一丁目は元和四年(1618)にできたが、はじめは本柳二丁一目と呼ばれていた。その後、江戸が大変繁盛していたことから、これにあやかって江戸街二丁目と改称した。





◆五十間道

五十間道とは「江戸、新吉原の衣紋坂から大門までの道。」とあった。
ただ、説明板などは何もなかったのでここで合ってるかどうかはわからない。




見返り柳の碑




 旧吉原遊廓の名所のひとつで、京都の島原遊廊の門口の柳を模したという。遊び帰りの客が後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、この柳のあたりで遊廓を振り返ったということから、「見返 り柳」の名があり。
   きぬぎぬのうしろ髪ひく柳かな
   見返れば意見か柳顔をうち
など、多くの川柳の題材となっている。
 かつては山谷堀脇の土手にあったが、道路や 区画の整理に伴い現在地に移され、また、震災・ 戦災による焼失などによって、数代にわたり植え替えられている。



◆宝晃寺





◆地方橋







日本堤(にほんづつみ)
 日本堤は新吉原への道のひとつとして、浮世絵や歌舞伎の題材にも取り上げられ、江戸の名所として賑わいを見せた。白本堤が築かれたのは、新吉原ができる37年前の元和6年(1620)とされ、その理宙は、低湿地帯である浅草・下谷を墨田川出水による范鑑の被害から防ぐためであった。江戸幕府が全国の諸大客に命令して築堤したことから、「日本堤」と呼ばれるようになったといわれるが、由来は諸説ある。
 浮世絵を見ると、吉原に向かう遊郭相手の茶屋などが日本堤沿いに立ち並んでいる様子や、遊郭の中にいる猫が茜の市帰りの客を見下ろしている場面、田圃の中で狸に化かされた人たちのユーモラスな様子などが描かれている。







◆地方新橋






 明暦の大火(1657年)後に、日本橋にあった元吉原から浅草北部の農村部に移転した来たことにより、新吉原と呼ばれた遊郭。最盛期には
3,000入の遊女が在籍していた。遊郭の周囲には堀がめぐらされ、出入口は吉原大門の一箇所のみだった。
 新吉原の中央にあった大通りでは、春には桜、秋には紅葉を一時的に移植し、特別な空間を演出していた。浮世絵を見てみると、遊客が名残を惜しんで振り返った位置にあったとされる「見返り柳」ゃ、大門と桜並木と艶やかな遊安の様子が猫かれ、当時の賑わいを見ることができる。



続く。