こちらでもどんどん南下する。
道路工事している所がたくさんあった。
江戸時代 中期、関東 一円の農村には雨乞いのために、雨降り山とよばれる丹沢の大山に参詣する習慣がありました。
これを大山詣といいます。赤坂見附から、青山 、世田谷 、二子 、溝ノ口 、長津田 、伊勢原を経て大山に至るこの道は、俗に大山道 とよばれていました。世田谷区内の大山道は、三軒茶屋 、世田谷通り 、ボロ市通り 、そして弦巻を通って、用賀 、二子玉川 に行っていました。
しかし、大山詣はしだいに、信仰は口実となり、帰り道東海道 に出て、江ノ島や鎌倉で遊ぶ物見遊山の旅に変わってききました。この像は、そんな大山詣をする商家の主人をモデルに、たぶん一服しただろうと思われるこの場所に設置したものです。
世田谷
ボロ市木もれ陽散歩は、世田谷線上町駅から静かな住宅街を抜けて公園までの約4.9kmのmみちのりです。江戸期の楽市に端を発する有名なボロ市が開かれるボロ市通りを歩き、世田谷代官屋敷、馬と緑の馬事公苑そして広大な砧公園内をめぐります。
室町時代、世田谷は吉良氏の支配地どなりました。吉良民は世田谷城を築き、世田谷の中心として栄えました。さらに江戸と小田原をつなぐ矢倉沢往環(その後の大山道)の要衝の地であったため、定期的な市も開かれ、賑わいをみせ
ていました。有名なボロ市はこの「楽市」が起源です江戸時代になると用水開発が行われ、田畑も積極的に開発され、江戸に野菜を供給する近郊農村としての役割を担いました。世田谷の地名の由来については定かではありませんが多摩部勢田鄉の谷地の部分という意味で付けられ
たとする説があります。
◆八幡神社
◆地蔵と馬頭観音
google mapだとこの写真のところ辺り。
ちょうど工事で掘っているところだろうか。
現地には説明板などはなかった。
続く。