2022/07/17 半蔵門散歩 02 ホスピタルプラザビル/串田孫一旧居跡/南法眼坂/一番町 説明版/半蔵門駅/永井坂/駐日アイルランド大使館

前の日記からの続き。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2022/07/17/200000






◆ホスピタルプラザビル

株式会社日本病院共済会などが入っているビル。
詳しい情報はWEBで見つけることができなかった。









串田孫一旧居跡



哲学者・串田孫一 (1915~2005) は人生、山、 植物などのテーマでエッセイなどを残した。 昭和13年から数年間ここに住んだ。

東京市芝区生まれ。父は三菱銀行会長の串田萬蔵、母フミは今村繁三の姉[1]。駿河台や永田町や一番町に育つ。暁星中学校から、1932年東京高等学校 (旧制)文科丙類入学、1935年卒業。1938年東京帝国大学文学部哲学科卒。中学時代から登山を始めた。1938年、処女短編集『白椿』を刊行、戦前は上智大学で教鞭をとる。戦後、1946年に『永遠の沈黙 パスカル小論』を上梓、『歴程』同人となる。旧制東京高等学校で教鞭をとり、1955年、最初の山の本『若き日の山』を上梓、1958年、尾崎喜八らと山の文芸誌『アルプ』を創刊、1983年に終刊するまで責任編集者を務めた。また矢内原伊作や宇佐見英治らが創刊した文芸誌『同時代』にも同人として参加。東京外国語大学教授を務めたが1965年退官。同年から1994年までFMラジオ番組「音楽の絵本」でパーソナリティを務めた。初見靖一の筆名をもつ。1980年に紫綬褒章を受章。
2005年7月8日に老衰のため東京都小金井市の自宅で89歳で死去[3]。戒名は豊徳院孫誉文岳哲道居士。
サインを求められたとき本名の音をもじって「九四○五一」と書くことがあった。
著作は山岳文学、画集、小説、人生論、哲学書、翻訳など多岐にわたる。詩集『羊飼の時計』(1953)、『山のパンセ』などが主著。
妻は旧侯爵・佐々木行忠の長女・美枝子[5]、長男は俳優・演出家の串田和美、次男はグラフィックデザイナーの串田光弘。 』
串田孫一 - Wikipedia










◆南法眼坂

坂上



坂下。



法眼とは僧の階級の一つであり、また江戸時代、医師、絵師、連歌師などに授けた称号のことです。
江戸時代、この坂の脇に斎藤法眼という医師の屋敷があったことから名付けられました。









◆一番町 説明版

 江戸城に入った徳川家康は、城の西側の守りを固めるために、この一帯に大番組に属する旗本たちを住まわせました。 ここから「番町」という地名が生まれ、この界隈には多くの武家屋敷がありました。
 明治になると、中央官庁や皇居に近接したこの地には、政府役人の官舎や華族の屋敷が並び、山県有朋の邸宅もありました。
 明治五年(1872)、英国大使館(当時公使館(当時は公使館)がこの地に移ってきます。 維新の志士たちと深い交流をもち、のちに駐日英国公使として日英同盟に尽力したアーネスト・サトウも、ここで多くの年月を過ごしました。
 英国大使館の裏手には、明治三十三年(1900)、津田梅子が女性の自立をめざした英語学校・女子英学塾を創立しました。 これが現在の津田塾大学の前身です。
 文化人たちにも一番町は愛されていました。 小説家、劇作家として名高く、画家でもあった武者小路実篤はこの地に生まれ、 結婚してからもしばらくその屋敷に住んでいました。 「荒城の月」「花」
などの歌曲で知られる作曲家の滝廉太郎や、 「からたちの花」 「赤とんぼ」 などを作曲し、西洋音楽の普及と発展に努めた山田耕筰もまた一番町の住人です。 昭和三十二年(1957) に制定された「千代田
下、英国大使館前に区歌の碑が残されています。
 昭和十三年(1938)、かつての五番町七上二番町、元園町一丁目の一部が一緒になって、 現在の一番町となりました。
 新たな文化を積極的に取り入れ、近代思想の礎を築いた町、 それが一番町なのです。










半蔵門駅









◆永井坂

坂上



坂下。



江戸時代、この坂道を挟んだ両側に五百五十俵取りの旗本・永井勘九郎と五百石取りの旗本・永井久右衛門の屋敷があったことから名付けられました。
明治時代になると、坂の周辺には華族や官吏の邸宅が多く建設されるようになりました。









◆駐日アイルランド大使館

アイルランド(愛: Éire、英: Ireland)は、北西ヨーロッパに位置し、北大西洋アイルランド島の大部分を領土とする共和制国家。代替的な記述でアイルランド共和国アイルランドきょうわこく、愛: Poblacht na hÉireann、英: Republic of Ireland)としても知られる。首都はダブリン。
人口490万人のうち約4割がダブリン近郊に住んでいる[1]。主権国家であり、北アイルランド(イギリス)との唯一の陸地国境を共有している。大西洋に囲まれており、南にはケルト海、南東にはセント・ジョージ海峡、東にはアイリッシュ海がある。単一国家であり、議会共和制である。立法府は、下院であるドイル・エアラン(Dáil Éireann)、上院であるシャナズ・エアラン(Seanad Éireann)、そして選挙で選ばれた大統領(Uachtarán)から構成されている。政府の長は議会で選出され、大統領によって任命された首相(Taoiseach、ティーショク、英語では「Prime Minister」とは呼ばれない)である。
1922年に英愛条約の結果、アイルランド自由国として誕生した。1937年に新しい憲法が採択されるまでは自治領の地位にあった。「アイルランド」と名づけられ、事実上の共和制となり、選出された非執行大統領が国家元首となる。1948年のアイルランド共和国法(Republic of Ireland Act 1948)により、1949年に正式に共和国と宣言された。1955年12月、アイルランド国際連合に加盟した。1973年には欧州連合EU)の前身である欧州経済共同体(EEC)に加盟した。20世紀のほとんどの間、北アイルランドとの正式な関係はなかったが、1980年代から1990年代にかけて、イギリス政府とアイルランド政府は「厄介事(愛: Na Trioblóidí、英: The Troubles)」と呼ばれている北アイルランド問題の解決に向けて北アイルランドの当事者と協力した。1998年にベルファスト合意が調印されて以来、アイルランド政府と北アイルランド政府執行部は、協定によって設立された南北閣僚協議会の下で、多くの政策分野で協力してきた。
アイルランドは一人当たりの国内総生産が世界で最も裕福な国のトップ10にランクされており、2015年のレガタム繁栄指数によると世界で10番目に繁栄している国である。EEC加盟後、アイルランドは一連の自由主義的な経済政策を実施し、急速な経済成長を遂げた。1995年から2007年までの間、ケルトの虎時代として知られるようになり、繁栄を達成した。2005年、『エコノミスト』の調査では最も住みやすい国に選出されている。しかし、2008年に発生した未曾有の金融危機と同時に世界的な経済危機に見舞われたことで、この時期の繁栄は途絶えた[5][6]。2015年にはアイルランド経済がEU内で最も急速に成長したことから、アイルランドは国際的に富と繁栄を比較するリーグテーブルを再び急速に上昇させている。例えば、2019年には、アイルランドは国連の人間開発指数によって世界で3番目に先進国にランクされた[8]。また、報道の自由、経済的自由、市民的自由など、数々の国の指標でも高く示されている。アイルランド欧州連合EU)に加盟しており、欧州評議会経済協力開発機構の設立国でもある。アイルランド政府は第二次世界大戦の直前から非同盟による軍事的中立政策をとっており、北大西洋条約機構NATO)には加盟していないが、平和のためのパートナーシップや常設軍事協力枠組み(PESCO)には加盟している。 』
アイルランド - Wikipedia










続く。
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