2023/05/24 石神井城跡


以前訪れたことがあり、今回こちらのページにまとめた。
2020/11/16 石神井公園散歩 06 練馬区立石神井図書館/石神井氷川神社/石神井城址/石神井公園/三宝字池厳島神社/宇賀神社穴弁天/石神井松の風文化公園 - ovanの社会科見学

石神井城は平安時代から室町時代まで石神井川流域に勢力を張った豊島氏の後期の日本の城であり、長尾景春の乱で没落するまで同氏が拠った。』
石神井城 - Wikipedia




 石神井城は、秩父平氏の一族で、石神井川流域を中心とする現在の東京都区部北側の地域に平安時代末期から室町時代中期頃まで勢力を持っていた、豊島氏の居城でした。石神井川三宝寺池に挟まれた標高約49mの舌状台地上に所在し、東西約350m、南北約350の規模の主郭と外郭からなる、比較的単純な構造の中世城館
です。昭和三十一年(1956)以降の数次の発掘調査によって、主郭や土塁築土から十二世紀から十六世紀前半までに属する陶磁器が出土しています。
 文明八年(1476) の長尾景春の乱の際、当時の城主豊島泰経は景春に与したので谷(やつ)上杉氏の家宰太田道灌に攻められることとなり、翌年、石神井城は落城しました。泰経が白馬に乗って三宝寺池に深く沈み、長女照姫も後を追って入水したなど、落城にまつわる伝説が伝えられています。



石神井城址とこの記念碑について

※2020/11/16撮影

 茅野あり、今なほ都塵を避け、武蔵野の面影僅かに残す
 此の辺り、太古より水清く、沃野につヽまれ、およそ一万年を数へる中石器時代より人跡を見る。
 平安末期に至り、桓武天皇曽孫髙望を祖とする秩父一族よりなる豊島、葛西、江戸氏等によりて開発されに、こヽに半農半武の荘園を結ぶ。
 以来十数代に亘り豊島氏一族は、紫の花香り髙く、月の入るべき山の端もなしと詠れし此の地に、堅固なる居城を設け、平塚、練馬城等と共に、三宝寺池より涌き出づる石神井川の流れを遡りつヽ開發し、繁栄を極むること三百有余年、豊島勘解由左衛門尉泰経の時代に至る。
 当時氏族の勢力争い、関東各地に起り風雲急を告ぐ。
 たまたま、文明九年(西暦1477年)、扇谷上杉定正の臣、太田道灌持資は、智略を以て豊島一族の各居城を攻めさせ、難攻不落と思はれし当城も衆寡敵せず遂に陥落す。
 時も春たけなは、四月のなりと伝ふ。かくして、当地は太田一族のもとに急速な発展をとげ、江戸城栄華と共に五百余年今日に至る。
 天地の常道は生成化育、人生亦これに従ふも天意ありて、人跡未到の地を開墾せし先人達の血と汗に涙を、亦時の運びとはいひながら豊島、太田一族の合戦に尊き一命を此の地に埋めたる敵味方戦士五百余名の諸霊、草茂り苦しむあり志日の戦場は人多き市街と化すも、誰ぞ香華を手向ける人もなき侭にあるを思ふ時、切々と胸せまり、春秋を吹きなぐる風の香、両の音にもその労苦を偲びて、ひたすら菩提の念を禁ぜざる●●あ●。
 国土の大御恩報じても報じ難く、幽顕一如 の理法は、即ち幽界の安霊ありて現界の安心ありと、大聖解脱金剛尊者の御教へのまにまにこの地にゆかりある人、ひそかに敵味方の執念を解消し、安霊を願ひ、供養を捧げて十数年、機熟し、区内有志各位の熱意により本碑建立の意図を抱きてなほ三年有余の日を労し、今やその運びとなる。
 茲に郷土を愛し、祖先の偉業を偲び、戦場に敬り志諸霊に供養を捧げ、怨讐を越えて、平等にその冥福を祈らんが爲、此の碑を建つ。
 追つて此碑除幕に当り、豊島、太田一族一党の戦いにより戦没され当時近郷近在ここかしこに弔はれたる将士の霊、及び当地開發の先人並に土地関係無縁萬霊を招き移し鎮めし事をあはせて記し、後の世の為に本碑に刻みて伝ふ。




 石神井城は、中世武士の豊島氏の城です。
 豊島氏は、葛西、江戸両氏とともに、秩父平氏で、鎌倉時代の末には、石神井郷を領有していました。
 室町時代に、城主の豊島奉経(やすつね)は、武蔵守護の上杉顕定にそむいた長尾景春に味方しました。そのために顕定を援助していた江戸城主の上杉定正重臣
太田道灌は、文明九年(1477)四月、この城に泰経を攻めて、これを落としました。 
 石神井城は、中世の平城の一つで、三宝寺池の谷と石神井川の低地とに挟まれた小高い立陵の上にあって、その周囲は空堀や土囲でめぐらされていました。
 今でも空掘のあとの一部を見ることができますが、落城によって照姫が水中に身を投げたという伝説など数々の哀れな物語を秘めています。






石神井城 の中心内郭跡



 石神井城は、平安時代末期から室町時代中期まで、現在の台東区、文京区、豊島区、北区、荒川区板橋区、足立区、練馬区などやその周辺地域に勢力を持っていた豊島氏の居城の一つです。
 城の築城は、鎌倉時代後期と考えられ、文明九年(1477)四月二十八日に太田道灘に攻められ落城し、廃城になりました。「太田道灌状」によれば、最後の城主豊島泰経(やすつね)は、石神井城落城の後、平塚城(北区西ヶ原) に敗走し、その翌年の一月二十五日、再び道灌に攻められ小机城 (横浜市)に逃げています。その後の泰経の足どりは、記録として文献には残っていません。
 城は、石神井川三宝寺池に挟まれた台地に築かれており、全体では九ヘクタール前後の規模であったと推定されています。当時の城は、土塁と壕で土地を四角形に区画した場所(郭) をいくつか築き、防御施設としていました。例えば、城の東側は、ここより約100m程の場所に幅7m程の壕で区画されていたと考えられ、西側
は、ここより約220m程の場所に幅9m程の壕と土塁で区画されていました。また、北側と南側は、三宝寺池石神井川という自然の地形を利用して防御されていました。
 この場所は、本城の中心となる郭で、土塁と壕が良く残っています。昭和四十二年の発掘調査では、次のような規模の郭であることがわかりました。
 空壕 上幅11.6m
    底幅 3m
    深さ6.1m
 土塁 基底幅 12.3m
    現在高 12.3m
(築城当時の高さ推定4.5m)
 また、内部は平坦であり、陶磁器片、かわらけ (素焼土器)、鉄釘なども出土しており、何らかの建物があったと考えられます。
 この地域は、右のように壕と土塁が良く残っている大切な揚所です。少しでも永くこの状態が残せる様、皆様のご協力をお願いいたします。





◆土塁・空堀




 フェンスで囲まれた場所は、東京都指定の中史跡「石神井城跡」の中でも、特に保存状能が良いところなので、当分の間、養生が必要となりました。
 そのため、原則として立ち入りは御遠慮下さい、なお、学術研究 (歴史学習) や生物調査、観察、その他要に応じての立ち入りは 石神井公園管理所に御相談下さい。皆さまの御協力をお願いいたします。






石神井城主郭跡

 中世に活躍した武将、豊島氏の居城であった石神井城の中心部分です。 三宝寺池側は崖で、残る三方はは堀と土塁が築かれていました。 内部 (内郭)は平坦で、有事の際に利用する建物などがあったと考えられている場所です。
 平成10年から6年間にわたって実施した市民参加の発掘調査では堀と土塁及び内郭の一部が明らかになりました。堀は調査地点で幅約12m、深さ約6mで、断面口形に関東ローム層 (赤土)を堀り下げ、底面を約3m幅で平らにした「箱堀」であることが分かり ました。 水が溜まっていた痕跡が無く 空堀です。 また、掘り上げた土は黒土を混ぜて少しずつ固めながら内側に盛上げ、土塁を築いています。 崩れていた土の量から推定すると現在より約3mも高かったと推定されます。 堀と土塁を合わせると比高差10m程となり、 堅固な防御施設であったことが分かります。 土塁からは14世紀後半から15世紀に作られた常滑(とこなめ)焼の甕(かめ)や鉄製小刀が出土しています。 内部の建物跡は明確にできませんでしたが、柱穴が発見されており小規模な掘立柱建物が建てられていたと考えられます。
 調査では、12世紀~16世紀にかけての中国製陶磁器や常滑焼、渥美焼などが少量ですが出土しており、豊島氏の財力を示すとともに、生活用具の出土は内郭建物で居住していたことの可能性を示唆しています。






場所はコチラ






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2020/11/16 記事アーカイブ
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石神井城址



 石神井城は、中世武士の豊島氏の城です。
 豊島氏は、葛西、江戸両氏とともに、秩父平氏で、鎌倉時代の末には、石神井郷を領有していました。
 室町時代に、城主の豊島奉経(やすつね)は、武蔵守護の上杉顕定にそむいた長尾景春に味方しました。そのために顕定を援助していた江戸城主の上杉定正重臣
太田道灌は、文明九年(1477)四月、この城に泰経を攻めて、これを落としました。 
 石神井城は、中世の平城の一つで、三宝寺池の谷と石神井川の低地とに挟まれた小高い立陵の上にあって、その周囲は空堀や土囲でめぐらされていました。
 今でも空掘のあとの一部を見ることができますが、落城によって照姫が水中に身を投げたという伝説など数々の哀れな物語を秘めています。


石神井城址とこの記念碑について

 茅野あり、今なほ都塵を避け、武蔵野の面影僅かに残す
 此の辺り、太古より水清く、沃野につヽまれ、およそ一万年を数へる中石器時代より人跡を見る。
 平安末期に至り、桓武天皇曽孫髙望を祖とする秩父一族よりなる豊島、葛西、江戸氏等によりて開発されに、こヽに半農半武の荘園を結ぶ。
 以来十数代に亘り豊島氏一族は、紫の花香り髙く、月の入るべき山の端もなしと詠れし此の地に、堅固なる居城を設け、平塚、練馬城等と共に、三宝寺池より涌き出づる石神井川の流れを遡りつヽ開發し、繁栄を極むること三百有余年、豊島勘解由左衛門尉泰経の時代に至る。
 当時氏族の勢力争い、関東各地に起り風雲急を告ぐ。
 たまたま、文明九年(西暦1477年)、扇谷上杉定正の臣、太田道灌持資は、智略を以て豊島一族の各居城を攻めさせ、難攻不落と思はれし当城も衆寡敵せず遂に陥落す。
 時も春たけなは、四月のなりと伝ふ。かくして、当地は太田一族のもとに急速な発展をとげ、江戸城栄華と共に五百余年今日に至る。
 天地の常道は生成化育、人生亦これに従ふも天意ありて、人跡未到の地を開墾せし先人達の血と汗に涙を、亦時の運びとはいひながら豊島、太田一族の合戦に尊き一命を此の地に埋めたる敵味方戦士五百余名の諸霊、草茂り苦しむあり志日の戦場は人多き市街と化すも、誰ぞ香華を手向ける人もなき侭にあるを思ふ時、切々と胸せまり、春秋を吹きなぐる風の香、両の音にもその労苦を偲びて、ひたすら菩提の念を禁ぜざる●●あ●。
 国土の大御恩報じても報じ難く、幽顕一如 の理法は、即ち幽界の安霊ありて現界の安心ありと、大聖解脱金剛尊者の御教へのまにまにこの地にゆかりある人、ひそかに敵味方の執念を解消し、安霊を願ひ、供養を捧げて十数年、機熟し、区内有志各位の熱意により本碑建立の意図を抱きてなほ三年有余の日を労し、今やその運びとなる。
 茲に郷土を愛し、祖先の偉業を偲び、戦場に敬り志諸霊に供養を捧げ、怨讐を越えて、平等にその冥福を祈らんが爲、此の碑を建つ。
 追つて此碑除幕に当り、豊島、太田一族一党の戦いにより戦没され当時近郷近在ここかしこに弔はれたる将士の霊、及び当地開發の先人並に土地関係無縁萬霊を招き移し鎮めし事をあはせて記し、後の世の為に本碑に刻みて伝ふ。


石神井城 の中心内郭跡



 石神井城は、平安時代末期から室町時代中期まで、現在の台東区、文京区、豊島区、北区、荒川区板橋区、足立区、練馬区などやその周辺地域に勢力を持っていた豊島氏の居城の一つです。
 城の築城は、鎌倉時代後期と考えられ、文明九年(1477)四月二十八日に太田道灘に攻められ落城し、廃城になりました。「太田道灌状」によれば、最後の城主豊島泰経(やすつね)は、石神井城落城の後、平塚城(北区西ヶ原) に敗走し、その翌年の一月二十五日、再び道灌に攻められ小机城 (横浜市)に逃げています。その後の泰経の足どりは、記録として文献には残っていません。
 城は、石神井川三宝寺池に挟まれた台地に築かれており、全体では九ヘクタール前後の規模であったと推定されています。当時の城は、土塁と壕で土地を四角形に区画した場所(郭) をいくつか築き、防御施設としていました。例えば、城の東側は、ここより約100m程の場所に幅7m程の壕で区画されていたと考えられ、西側
は、ここより約220m程の場所に幅9m程の壕と土塁で区画されていました。また、北側と南側は、三宝寺池石神井川という自然の地形を利用して防御されていました。
 この場所は、本城の中心となる郭で、土塁と壕が良く残っています。昭和四十二年の発掘調査では、次のような規模の郭であることがわかりました。
 空壕 上幅11.6m
    底幅 3m
    深さ6.1m
 土塁 基底幅 12.3m
    現在高 12.3m
(築城当時の高さ推定4.5m)
 また、内部は平坦であり、陶磁器片、かわらけ (素焼土器)、鉄釘なども出土しており、何らかの建物があったと考えられます。
 この地域は、右のように壕と土塁が良く残っている大切な揚所です。少しでも永くこの状態が残せる様、皆様のご協力をお願いいたします。


土塁・空壕





 フェンスで囲まれた場所は、東京都指定の中史跡「石神井城跡」の中でも、特に保存状能が良いところなので、当分の間、養生が必要となりました。
 そのため、原則として立ち入りは御遠慮下さい、なお、学術研究 (歴史学習) や生物調査、観察、その他要に応じての立ち入りは 石神井公園管理所に御相談下さい。皆さまの御協力をお願いいたします。


石神井城主郭跡

 中世に活躍した武将、豊島氏の居城であった石神井城の中心部分です。 三宝寺池側は崖で、残る三方はは堀と土塁が築かれていました。 内部 (内郭)は平坦で、有事の際に利用する建物などがあったと考えられている場所です。
 平成10年から6年間にわたって実施した市民参加の発掘調査では堀と土塁及び内郭の一部が明らかになりました。堀は調査地点で幅約12m、深さ約6mで、断面口形に関東ローム層 (赤土)を堀り下げ、底面を約3m幅で平らにした「箱堀」であることが分かり ました。 水が溜まっていた痕跡が無く 空堀です。 また、掘り上げた土は黒土を混ぜて少しずつ固めながら内側に盛上げ、土塁を築いています。 崩れていた土の量から推定すると現在より約3mも高かったと推定されます。 堀と土塁を合わせると比高差10m程となり、 堅固な防御施設であったことが分かります。 土塁からは14世紀後半から15世紀に作られた常滑(とこなめ)焼の甕(かめ)や鉄製小刀が出土しています。 内部の建物跡は明確にできませんでしたが、柱穴が発見されており小規模な掘立柱建物が建てられていたと考えられます。
 調査では、12世紀~16世紀にかけての中国製陶磁器や常滑焼、渥美焼などが少量ですが出土しており、豊島氏の財力を示すとともに、生活用具の出土は内郭建物で居住していたことの可能性を示唆しています。


石神井城跡

 石神井城は、秩父平氏の一族で、石神井川流域を中心とする現在の東京都区部北側の地域に平安時代末期から室町時代中期頃まで勢力を持っていた、豊島氏の居城でした。石神井川三宝寺池に挟まれた標高約49mの舌状台地上に所在し、東西約350m、南北約350の規模の主郭と外郭からなる、比較的単純な構造の中世城館
です。昭和三十一年(1956)以降の数次の発掘調査によって、主郭や土塁築土から十二世紀から十六世紀前半までに属する陶磁器が出土しています。
 文明八年(1476) の長尾景春の乱の際、当時の城主豊島泰経は景春に与したので谷(やつ)上杉氏の家宰太田道灌に攻められることとなり、翌年、石神井城は落城しました。泰経が白馬に乗って三宝寺池に深く沈み、長女照姫も後を追って入水したなど、落城にまつわる伝説が伝えられています。