『狭山丘陵南部の東京都立狭山自然公園内に位置する。村山貯水池(多摩湖)の堰堤東側にあり、雑木林が広がるほか、広場などが整備されている。 開園面積は23.5 ha。 』
狭山公園 - Wikipedia
狭山公園は、都立狭山自然公園の区域内にあり、 武蔵野の里山の風景や自然が今も色濃く残っています。 都民の水がめである多摩湖 (村山貯水池) の堰堤の東側に広がり、丘陵の湧水や多摩湖からの
流水で出来た宅部 (やけべ) 池や、 ゆったりお弁当を広げてのんびり過ごせる太陽広場などがあります。
園内にはソメイヨシノ、ヤマザクラ、サトザクラ等、趣の異なる種類の桜が植えられており、多摩湖畔のサクラとともに花見の名所として知られています。また、宅部池周辺のイロハモミジ 、ハナ
ミズキは新緑の頃と秋の紅葉の美しさは格別です。
鳥類の種類も豊富で、カッコウ、ホトトギスなど、都心ではなかなか見られない鳥をはじめ、 アオゲラ、キジ、コジュケイなどが生息し、4月下旬から5月初めにかけての繁殖期には賑やかなさえず
りの声が聞かれます。
◆村山貯水池堤体強化工事完成記念碑
大正二年東京市水道擴張(かくちょう)ノアリ時
ニ工學士中野曻(なかののぼる)君技士ニ任セラレエ
學博士中島鋭治(なかじまえいじ)君指導ノ下ニ其(そ)の業
二従(したが)ヒ殊(こと)ニ至難(しなん)トセラレタル村山貯
水池ノ工事ニ盡瘁(じんすい)シ大正十四年七月
四日病没セリ後 (のち)ノ見ル人斯業(しぎょう)ノ因(よ)
ル處(ところ)ヲ考へ以(もっ)テ其(その)ノ人ヲ思フヘシ
大正二年、東京市は水道事業の規模拡大を行いました。当時、工学士中野昇氏が担当の技師に任命され、工学博士中島鋭治(なかじまえいじ)氏の指導を受けて、その実務に当ることになります。
特に、最も困難とされた村山貯水池の工事にあたっては、自らを省みず懸命に努力し、その結果、大正十四年七月四日病により亡くなりました。
後の時代に貯水池の偉容を見る人は、それがどのようにしてなされたかを考え、水道事業に尽くした中野氏のことを忘れてはなりません。
◆多摩湖氷川神社
園内にあった神社。
情報量が多いので別のページで。
2023/09/29 多摩湖氷川神社 - ovanの社会科見学
ここに展示してある高欄は、 昭和2年完成時に設置されていたものです。
村山下貯水池には、太平洋戦争時に爆弾から堤体を保護するために設置した耐弾層 (玉石を積み、 コンクリートで固めたもの) がありましたが、堤体の強化工事に伴い耐弾層を撤去したところ、コンクリートの中からこの高欄が建設当時の姿で出現しました。
耐弾層(たいだんそう)に覆われていたために、色や形などは建設当時の状態でした。
東京都水道局では、 当時の土木技術を後世に伝える貴重な近代土木遺産として、ここに保存・展示しています。
(5)斎藤俳小星 虚子が認めた農俳人 ハンセン病患者に40年指導 - 日本経済新聞
この池のあたりは、葦の繁茂する湿地帯で、そのほとりの道は、大和村から宅部および埼玉県に通じ、近郷の人びとの交易に重要な道でした。
村山下貯水池が完成間近な1925年(大正十四年) 八月、大和村狭山に住む”たっちゃん”(当時十歳)という泳ぎ上手な子供が、この池で泳いでいておぼれてしまいました。 工事をしていた人の中に、海軍兵経験の人も何人かいて助けに入りましたが、そのうちの二人も池にのまれてしまったと語りつがれています。
それ以来、この池を「たっちゃん池」と呼ぶようになりました。
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宅部池の生きもの
・カイツブリ
・クロダハゼ
・モクズガニ
・ニホンアカガエル
・オオヤマトンボ
など
SNSに、 宅部池の生きもの写真を掲載中!
https://www.instagram.com/p/CwSKeExMYt1/?igshid=MTc4MmM1YmI2Ng==
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宅部池のヒミツ
池の水を抜いて 池底の掃除や外来生物を捕獲する「かいぼり」を、2020年までに計3回実施しました。
SNSに、 かいぼりの様子や捕獲した外来生物の写真を掲載中!
https://www.instagram.com/p/CwSHCtls4Ql/?igshid=MTc4MmM1YmI2Ng==
水生植物復活プロジェクト
宅部池では2016年かいぼり後に東京都初記録となったミゾフラスコなどの藻類の生育が確認されましたが、 それ以外の水生植物の発芽は確認されていません。
来園者の方から 「以前は島の周りにスイレンのようなものがあった」 などの情報提供があり、かつては多様な水生植物が生育していた可能性があります。 そのため、底泥に眠っている種子から水生植物を復活させる取組みを行うことにしました。
天日干し期間中、 他の複数箇所から底泥を採取し、一部は木枠で囲った浅場創出エリアに、もう一部は発芽実験のためのプランターに撒き出しました。 どんな水生植物が発芽してくるでしょうか。 ご理解とご協力のほど、 よろしくお願いいたします。
◆十二段の滝
google maoを見ると「興水吐き」のマークもある。
十二段の滝 (余水吐き)
村山貯水池のオーバーフロー (越流水) を部川に流すために作られた水路で、落差約30mの落差工(十二段)及び溢流路で、構造は玉石張りのアーチ風段差工となっており、 流れる水の勢いを抑えるためこのような段差がつけられています。
貯水池満水時における堤体保護のため、 緊急対策施設として設置されています。
余水吐き施設、溢流路、余水吐き一号橋、 余水吐き二号橋 (滝見橋)などは大正時代に構築されたものです。
村山貯水池の概要と歴史
村山貯水池の歴史
東京市 (現在の東京都) は人口増による水需要の増加に対応する為に、 明治42年(1909)水道拡張の調査を東京市区改正委員会に依頼し、委員会はこの調査を東京帝国大学 (現在の東京大学)教授の中島鋭治工学博士らに嘱託しました。
明治44年(1911) 中島博士より調査結果が報告され、 多摩川の水を羽村から導き村山貯水池に貯水、 ここから境浄水場に導水して浄水処理を行い、 和田堀浄水池を経て市内に給水するという案が決定されました。
この水道拡張計画は大正元年 (1912) に総工事費 2,072万円で内閣に承認され、 大正8年(1919 )までの入ヵ年計画で、翌年より設計に着手、 大正5年(1916) 下貯水池堰堤から工事が始まりました。
工事は、導水用の2つの隧道工事 (羽村村山線・村山境線)で大量の湧水が発生し難航しましたが、それ以上に工事の進捗を妨げたのは第1次世界大戦による経済的混乱でした。
工事を進めるための材料・労働力・資金の確保が困難となり、 戦中には大正10年 (1921) まで2ヵ年の工期延長を行い、戦後には工事を2期に分け、第1期工事(事業費 3,610万円 羽村村山線・村山上貯水池 村山下貯水池堰堤の下半分・境浄水場 境和田堀線の一部・和田堀浄水池等の建設)を大正12年 (1923) までの工期、残りの工事を第2期工事(事業費 1,150万円)とも大正17年(1928) までの工期としました。
その後第1期工事は順調に推移し、予定通り完了すると思われましたが、 大正12年 (1923)9月1日に関東大震災が発生、 村山貯水池は小さな亀裂が生じた程度でしたが東京の被害は甚大で、止むを得ず工期を1年延ばし翌大正13年 (1924) に1期工事が完了しました。
これによって、日量約14万㎡の施設能力が増強されましたが、所期の給水量の確保の為には村山下貯水池堰堤の完成が急務とされました。 しかし、震災後の混乱で第2期工事を開始することが出来なかった為、帝都復興事業の水道復興費をあて水道復興速成工事として大正13年(1924)下貯水池堰堤の残工事が着工され、昭和2年(1927) にようやく村山貯水池の全工事が完成しました。
村山貯水池完成後、時代は一気に戦争へと向かいました。 村山貯水池畔にも防空の為に東部第78 部隊(高射砲連隊)により高射砲が設置され、また直接の被爆に備えて夜間上空からの明度差を無くす為に親柱をタールで黒く塗り、 堰堤上には耐弾層 (玉石を積上げ表面をコンクリートで固めた、 厚さ2.5mの防護層)が設置されました。
昭和20年(1945)の東京大空襲の際には村山貯水池も被爆し、第1 取水塔の外壁には当時の機銃掃射の痕が現在もそのまま残っています。
戦後の高度成長で益々東京都の水需要が増加した為、 昭和48年(1973) 第2取水塔が建設され、毎秒約/20㎡に送水能力が向上しました。
平成7年(1995) に起きた阪神・淡路大震災により耐震基準が見直され、水道施設に関しても耐震性向上を計画、 貯水池の強化工事が進められ、平成14年 (2002) に山口貯水池が、 平成21年(2009) に村山下貯水池の工事が完成しました。
村山下貯水池取水塔
村山下貯水池第一取水塔は大正14年7月に完成、 奥にある第二取水塔は、 取水量を増やすために昭和48年2月に完成しました。
多摩川の水が羽村取水堰で取水されて地下導水管により村山上 ・ 村山下貯水池まで運ばれ、一旦貯留されたのち、この取水塔で取水され東村山、 境、 朝霞、 三園の各浄水場に送られています。
村山下貯水池第一取水塔は、ネオ・ルネッサンス様式で、 煉瓦造りの円筒に丸いドーム状の屋根の特徴を持つ取水塔で、 平成21年に「東京都選定歴史的建造物」 に選ばれました。
村山下貯水池第一取水塔
この取水塔は、村山下貯水池の完成に先駆け大正14年に建設された水道施設で、現在でも東京の水道を支える重要な存在です。 この建物は、高さ27.1mの塔ですが、その大部分は水面下にかくれています。 水面上に突出した上屋に重厚なデザインのドーム屋根を乗せ、 タイル貼りの外壁には、柱形やアーチ窓が装飾されており、多摩湖のシンボルとなっています。
村山貯水池の概要と歴史
生まれ変わった村山下貯水池
平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災を契機に、 水道施設の耐震性向上が計画され、その一環として村山下貯水池の堤体と取水塔の強化工事を行いました。 工事は平成15年(2003年)に開始し、 平成21年(2009年)4月に完成しました。
堤体強化工事では、昭和2年(1927年) 完成の堤体の下流側に約37万㎡の盛立を行い、堤体の幅を広げることで地震に対する安定性を高めています。
工事は、 周辺の自然環境に与える影響を最小限にするため、 貯水池のすべての水を抜くのではなく、水鳥などの生息の場である湖水面を出来る限り確保する等の配慮をしました。
堤体強化工事の結果、 村山下貯水池の大きさは以下の様になりました。
・堤高(ダムの高さ): 34.5m ほぼ10階建てのビルの高さです。
・堤頂長(ダムの軸方向の長さ): 610m 東京スカイツリー (新東京タワー) を横にした長さと同じです。
・堤体積 (ダムの体積) 121万㎡ 10tダンプトラックで約24万台分の土の量です。
・有効貯水量 (貯められる水の量) : 約 1,200万㎡ 東京ドーム約10個分に相当します。
東大和20景
多摩湖 (下貯水池)
新東京百景のひとつです。 正式には村山貯水池といい、 多摩川の水を貯水する人造湖です。
東京の水がめとして大正5(1916) 年から昭和2(1927) 年まで、10年以上の年月をかけて造られました。 面積は市域の約4分の1を占めます。
桜の名所としても知られ、 周囲に約4万本の桜の木があります。
緑の豊かな狭山丘陵に囲まれているため、 新緑、紅葉、雪景色など、 四季を通じて楽しめる場所です。
堤体強化工事について
強化盛土材料
堤体強化盛土の材料は、 さや土・下流抑え盛土等を削った粘土、砕石、砕砂を混ぜたものを使用しました。
なお、混合比は乾燥重量比で粘土、砕石、砕砂を 「1:15:15」 としました。
ストックパイル
強化盛土の材料は、 堤体掘削土 (母材) と砕石、砕砂をそれぞれ厚さ20cmで相互に積み重ねて造成しました。
実際の工事で使用したストックパイルは、 貯水池内の、水位を低下させたことによって利用できるようになった用地約 34,000㎡に高さ約12mの規模で造成しました。 このストックパイルをブルドーザで薄く削り取るように押し崩して材料を混合し、 さらにバックホウ (パワーショベル) でかき混ぜた後、 10tダンプトラックに積込んで盛立場(もりたてば) (堤体強化部分)まで運搬し 10t級振動ローラーで転圧して盛立てました。
堤体強化工事の手順
手順1. 地震が来た時に、 揺れを大きくする原因となる部分を取り除きます。
揺れを大きくする原因となる部分は、ここでは耐弾層(たいだんそう)のことです。
抑え盛土とさや土の一部はより強いものに置き換えるため、一旦取り除きます。
手順2. 公園側に強化盛土を行い、揺れを小さくする形状と材質にします。
堤体の幅を広げることにより揺れにくい形状にします。 また、 強化盛土で現在より強い材質にします。
強化盛土は場所に応じてジオテキスタイル、 及びセメント安定処理士も採用します。
貯水池に訪れる水鳥たち
貯水池では、多くの水鳥が観察できます。
コガモ マガモ・カンムリカイツブリなどの水鳥は、冬鳥として貯水池を訪れ、 主に秋から冬に観察できます。
カルガモ・カイツブリ・カワウなどは、 1年を通して餌場や休息地として貯水池を利用しています。
多摩湖(村山貯水池)は東京の水がめと言われ『東やまと二十景」にも選ばれるなど 東大和市民の心のふるさとです
東大和市では毎年春分の日にここ多摩湖の周辺道路を舞台に 多摩湖駅伝大会を開催しています
この駅伝大会は前身の狭山湖駅伝大会から通算して半世紀以上続く伝統ある大会です
市ではこの大会のさらなる発展により市民のスポーツ振興及び健康増進を図るとともに地域経済や文化の振興につながることを目的としてこの地に記念碑を設置しました
またここは1978年(昭和五十三年)四月十六日に社団法人日本タートル協会により日本初と言われる女子フルマラソン大会が行われるなど日本女子マラソン界の原点の場所でもあります
市は新東京百景やダム湖百選にも選ばれている景勝地多摩湖でスポーツ行事の歴史と伝統を守り将来にわたって運動に親しめる環境を育んでいきます
「木綿絣」
昔、東大和市では機織が盛んでした。藍染の木綿絣(もめんかすり)がほとんどで、江戸の頃から、明治、大正となるにつれて生産が増えました。
白い綿糸十二反分を輪にして、ところどころをくくり、藍がめで染めつけ、絣模様(かすりもよう)を作りました。このくくり方の間隔で絣模様が変わります。 染め場には、藍がめが何十個もあります。藍玉をかめの水によくとかし、染め付けを良くするために、押麦、米、灰、酢などを入れ、よくかき回します。かめに入れた綿糸を引き上げて絞り、何度も打ちつけて乾かし、また次のかめに入れます。こうした作業が繰り返されて濃い紺色に染め上がります。染め上がったら、つぼ(織子)に出します。織手の娘たちは、朝五時ごろから、夜十時ころまで織り続けます。朝食前に三、四尺織り、一日に一反織って一人前と言われました。
この木綿絣は、時代の流れとともに、人々が洋服を着るようになると需要が減り、次第に織られなくなりました。
―東大和のよもやまばなしからー
この作品は、木綿絣をイメージし、東大和市美術工芸品設置事業の一環として製作したものです。
《作品制作意図》
白い綿茶は、藍がめの中に何度も入れられ、綴られ、打ちつけられる過程で、青い空、太陽の光、そよぐ風にさらされながら、深く爽やかな藍の色に染め上がっていきます。
かめの中の藍が発酵して一番良い染めごろになると泡ぶくがたってキラキラと輝き、まるでダイヤモンドの光のように美しく見えたという蓋がめの姿に、藍染めに必要不可欠な青い空、太陽の光、そよぐ風の力を蓄えたイメージを取り込んで、私なりの藍がめを制作してみました。
染め場では土に埋められていて、口の部分しか見えない藍がめですが、 見えない形に思いを馳せ、その姿を浮かび上がらせています。
村山下貯水池は、 大正5年から昭和2年にかけて築造された、 水道専用のアースフィルダム (土を主材料としたダム)です。
その後、地震時にも高い安全を確保するため、 平成15年から平成21年にかけて、最新の技術を取り入れた堤体の耐震強化工事を行い、より強固なダムとして生まれ変わりました。
ここに、堤体強化工事の竣工と村山下貯水池の新た一歩を記念してこの石碑を設置したものです。
昭和2年の堤体完成当時の親柱です。
太平洋戦争時に爆弾から堤体を保護するための耐弾層 (玉石を積み、 コンクリートで固めたもの)に、 下から半分程が埋まり露出部はカモフラージュのためコールタールで黒く塗ってありました。
堤体強化工事に伴う耐弾層撤去によって、 建設当時の親柱全体が出現しました。
東京都水道局では、 当時の土木技術を後世に伝える貴重な近代土木遺産として、 ここに保存・展示しています。
◆ダム湖百選碑
◆東大和市デザインマンホール
場所はこちら