2023/12/17 成願寺


『開基である鈴木九郎は紀州出身で室町時代に当地にやってきて[1]開拓・放牧を始め、成功し財を成し「中野長者」と呼ばれ、成願寺付近に邸宅を構えていた。鈴木九郎には小笹という一人娘がいたが18歳で病死し、九郎に深い悲しみを与えた。これを機に残りの人生を仏門に生きる決意をし、小田原の大雄山最乗寺の春屋宗能の教えを受け名を正蓮に改め僧侶となり、邸宅を寺院にしたのが当寺院の始まりである[1]。1438年のことであった。
名は娘の戒名から当初は正観寺となっていたが[1]、江戸時代に成願寺と改められる[2]。幕末には一時、新選組近藤勇とその家族が当寺院に身を寄せていた。
明治時代に神仏分離令により十二社(現:新宿区西新宿)の熊野神社が分離され、現在に至っている。 』
成願寺 (中野区) - Wikipedia





鍋島家の墓所
 この成願寺(じょう がんじ)には、大名・蓮池鍋島家の墓所があります。 中野在来の寺院で大名家の墓所があるのはここだけです。
 蓮池(佐賀市東部)の鍋島家は、直澄が寛永(かんえい)十六年(1639) 五萬二千六百石を与えられ分家したのに始まります。
 墓域に入ると十基の墓石が立ち並んでいます。 手前の自然石が四代藩主・直恒の供養碑、三番目の四角いのが墓石です。銘文によれば、
 直恒は、寛延二年(1749)に麻布龍土町(あざぶりゅうどちょう)(港区)の藩邸で病死し、衾(ふすま)村(目黒区)に葬られましたが、のちその墓は成願寺に移されました。
 他の八基の墓は、二代直之・八代直与・九代直紀の子供たちのものです。
 また、墓地の右手の奥に鍋島地蔵と呼ばれる地蔵姿の墓碑があり「真如院殿一幻妙覚童女之霊」の法名が刻まれています。





◆鍋島家墓所








◆鍋島地蔵






◆關澤明清の墓

『関沢 明清(せきざわ あけきよ、天保14年2月17日(1843年3月17日) - 1897年(明治30年)1月9日)は明治時代の水産官僚。旧加賀藩士。ウィーン万国博覧会水産業の重要性に触れ、アメリカ合衆国で魚の養殖、缶詰製造を学び、日本で初めて鱒の人工孵化を成功させ、農商務省技師としてアメリカ式巾着網による鰯漁、捕鯨砲によるアメリカ式近代捕鯨を試みた。駒場農学校長、初代水産伝習所長、東京農林学校教授。』
関沢明清 - Wikipedia






◆鈴木九郎宝篋印塔(中野長者屋敷跡)






◆地下壕

さっきgoogle mapのマークをチェックしたら無くなっていた。
調べてみたら、確かに地下壕があるようだ。
参考
なんと総延長40m 中野区に「巨大な防空壕」が眠る禅寺があった | アーバン ライフ メトロ






◆洗心閣






◆円通閣






龍鳳






◆長者閣






阿弥陀如来尊像






◆ほほえみ観音






六地蔵



六地蔵のお話
 今から千年の昔、玉祖惟高(たまのおやのこれたか)という人が急な病であの世・・・冥土に旅立ちました。冥土は広い広い野原、道を失い立ちすくむ。
 その時、杖と宝珠を携えた子どもの僧六人現れ、惟高に言う。「我ら地蔵菩薩なり。ここに地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の六道あり。道に迷う者あれば、我ら六種の姿で救わん。 汝 元の世に戻り、六地蔵の像を祀るべし」
 惟高は生き返り、お目にかかった六体の地蔵様の像を彫り、皆で拝みました。
今昔物語集」より






不動明王






地蔵尊






十六羅漢






◆石塔






◆石塔






◆中野長者鈴木九郎のものがたり

鈴木九郎が中野本郷に住みついたのは約六百年前足利時代の初めである
彼の先祖は古代の貴族穂積氏を元とし 紀伊熊野権現別当を代々務めのち武家となった
源平合戦の頃には鈴木重家・重清の兄弟がおり義経に従い西は壇ノ浦の合戦で平家を滅ぼし 北は衣川の館で戦って義経に殉じた
足利の世には南朝の臣に列する刀槍を重んずる一族であったが応仁の世 天下入乱れて領地権力を奪い合うあさましい時代となった
これに愛想のつきた鈴木九郎は新地開拓を志して神田川の辺に至り鎌を手に田園生活に入ったそばかりの湿地を起して稲を植え松のみ茂る荒れ地を拓いて馬頭を走ってなりわいとしていたがその貧しさはまことに眼を覆わしむるものであった
そんな日九郎は下総葛西の馬市を目指して東に向った



葛西とは葛西とは利根川現在の江戸川下流の地域で中野からはほど遠い道筋である
その途次浅草観音に詣でた九郎は「鳥代金に大観通宝が入っていたらそれをすべて銭にいたします
どうか馬が高く売れますように」と願をかけた 大観通宝とはその時代おおいに使われた宋銭輸入穴あき銭の一つである馬は予想外の高価に売れて一貫文(二十万円位か)を得た
しかし驚くなかれ代金はすべて大観通宝だった
九郎は観音様に祈願した約束通り大観通宝をそっくり奉納し一銭も持たずに家路を辿った無一物の九郎を迎えてうろたえた妻も ことのいきさつを知った時
「それはよいことをしましたこれからは観音様が私たちを見守って下さりつとめに励めば必ず報いられましょう」
と合掌して喜んだ



その日から九郎は妻の言葉通り今まで以上に開拓に精進した
妻女も又 貧しさに負けなかったそんなある日のこと・・・
ある朝突然・・・
九郎の家が黄金色に輝いた
なんと黄金がぎっしりとつまった壺が九郎の家に出現した
「南無観世音菩薩」
九郎は改めて観音様に感謝をし約束をした
「この地を平和と幸福にあふれた土地にいたします」
その後九郎は人々のために大きな田や畑をつくり橋と舟もつくり人や物が行き交う豊かな土地に発展させた
神田川のほとり鈴木九郎あり九郎は人々の評判となり「中野長者」と称賛されるようになっていた



一種種の娘の 小笹は成長するに従って光るが如き美しさを加え人々は
「中野長者の持つ最上の宝はあの娘じゃ」
とうわさした
今 長者夫妻の幸福はまさに頂点に立ったと思われた
しかし長者の宝と称された愛おしく美しい娘 小笹は若くして病気になった
長者はお金をどんどん使って様々な手をつくしたが小笹はその甲斐もなく死んでしまった
悲しくて悲しくて長者夫妻は食事ものどもとおらなかった



「この世に幸福を願い生きてきたその結果が愛おしい娘の死とは・・・」
夫妻は絶望し生きる力さえ失い苦しんだ
「本当にこの世に平和や幸福はあるのだろうか」
絶望の底にある妻を救ってくれたのは・・・
若き日に観音様に祈り約束通り全てをさし出した
あの時と同じ心であった相模の国道了尊最乗寺の春屋宗能禅師こそ大徳なりと耳にした夫妻は直ちに上山参籠中野本郷への道場を乞うた
諸行無常是生滅法巨万の富も無に異ならず大義を悟った九郎夫妻は宗能禅師に就いて授戒した
受戒は佛門に入る儀式である
夫は正蓮 妻は炒珊の戒名を授かった



また精舎(お寺)を興し小笹の戒名 真正観善女に因んで正観寺と号した
正観寺ば九郎没後邸を境内として伽藍を整備した
川庵宗鼎和尚を迎えて開山とした
現在の成願寺の名は江戸時代再興の折に「願い成る」として名付けられたものである
これより先九郎は祖先の地熊野より十二所の天神地祇を勧請しお祀りした
西新宿十二所熊野神社の始まりである
発心の人鈴木九郎を偲ぶよすがである両社寺に今なおさかんに人は集まる
観世音菩薩の大慈悲 功徳をまさに仰望せん

 この「中野長者鈴木九郎のものがたり」は成願寺に伝わる縁起にもとづいて創作したものです。
 縁起によると、紀州熊野神社神職をつとめていた鈴木氏がのちに奥州におちのび、その子である鈴木九郎が家の再興を願ってこの地に至り、応永年間(1394~1428)に開のを下ろしたとあります。
 成願寺縁起のほかにも長者伝説はいくつか伝えられており、このような人物が実在したことは疑いようがありません。おそらく中野・西新宿の発展に指導的役割を果たした人物が中野長者こと鈴木九郎であったのでしょう。
 この看板を制作するにあたり、作画は前田康成氏に、文字は当山檀信徒をはじめ有縁の寺院に数行ず分担してお書きいただきました。







◆成願寺竜宮門(山門)

場所はコチラ






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2016/10/24 アーカイブ
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さらに歩いて大きい道路に出て北上すると、成願寺という大きなお寺がありました。




鍋島家というのは大名だったみたいですね。
中野区の史跡看板は日に当たると褪せていくみたい・・・・。
哲学堂あたりも中野区ですから、広さを感じます。


 この成願寺には、蓮池鍋島家の墓所があります。中野在来の寺院で大名家の墓所があるのはここだけです。
 蓮池(佐賀市東部)の鍋島家は、直澄が寛永十六年(1639)5万2600石を与えられ分家したのに始まります。
 墓域に入ると10基の墓石が立ち並んでいます。手前の自然石が4代藩主・直恒の供養碑、3番目の四角いのが墓石です。銘文によれば、直恒は、寛延二年(1749)に麻布龍土町の藩邸で病死し、衾村(目黒区)に葬られましたが、のちその墓は成願寺に移されました。
 他の8基の墓は、2代直之・8代直与・9代直紀の子供達のものです。
 また墓地の右手の奥に鍋島地蔵と呼ばれる地蔵姿の墓碑があり「真如院殿一幻妙覚童女之霊」の法名が刻まれています。