2020/09/17 南青山散歩 04 青山霊園 04

◆長谷川好道墓所

『長谷川 好道(はせがわ よしみち、1850年10月1日(嘉永3年8月26日) - 1924年大正13年)1月27日)は、日本の陸軍軍人。韓国駐剳軍司令官、参謀総長朝鮮総督を歴任。官位は元帥陸軍大将・従一位大勲位・功一級・伯爵。 』
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◆比志島義輝墓所

『比志島 義輝(ひしじま よしてる、1847年10月11日(弘化4年9月3日) - 1927年3月14日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。日本体育会体操学校(のちの日本体育大学)代表。 』
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福岡藩主黒田侯爵家墓所

福岡藩主・黒田氏
『近世、黒田孝高(官兵衛・如水)・長政父子が筑前国福岡藩を立藩した黒田氏は、その40年ほど後に作成された『寛永諸家系図伝』によると、戦国時代後期に活動した播磨国国人領主黒田重隆まで遡ることができる。重隆は播磨の有力豪族・小寺氏に重臣として仕えた武将であり、孝高の祖父にあたる[2]。『寛永諸家系図伝』によると重隆以前は「此間中絶」となっており伝承されていなかったようであるが、それ以前の系譜として中世の間、近江国に勢力を持った佐々木氏(京極氏)の分家筋である黒田氏の流れであると紹介している。 』
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黒田長成
『黒田 長成(くろだ ながしげ、慶応3年5月5日(1867年6月7日) - 昭和14年(1939年)8月14日)は、日本の政治家で華族(侯爵)。号は桜谷。父は筑前福岡藩の最後の藩主黒田長知。母は側室・隅田氏。妻は公爵島津忠義の娘清子。後嗣は嫡男・黒田長礼。黒田家17代目の当主である。位階は従一位、勲等勲章は勲一等旭日桐花大綬章。 』
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河口慧海宮田輝墓所

河口慧海
『河口 慧海(かわぐち えかい、1866年2月26日(慶応2年1月12日) - 1945年(昭和20年)2月24日)は、黄檗宗の僧侶。仏教学者にして探検家。幼名を定治郎という。僧名は慧海仁広(えかいじんこう)。
中国や日本に伝承されている漢語に翻訳された仏典に疑問をおぼえ、仏陀本来の教えの意味が分かる物を求めて、梵語の原典とチベット語訳の仏典入手を決意。日本人として初めてチベットへの入国を果たした。
西蔵旅行記』『在家仏教』をはじめとして数多くの著作を残し、慧文社から著作選集も出版されている。また全ての著作が戦前に出版されたものであり、既に著作権が切れているため、国立国会図書館デジタルコレクションなどで当時の著作画像が閲覧できる他、『西蔵旅行記』などは青空文庫などでも公開されている。 』
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宮田輝
『宮田 輝(みやた てる、1921年12月25日 - 1990年7月15日)は、日本のアナウンサー、参議院議員(3期)。本名、宮田 輝(みやた あきら)。
東京都足立区出身。血液型B型。明治大学卒業。1942年にNHKに入局。NHKにおいて、高橋圭三や青木一雄らと同じく、「芸能番組向けアナウンサー」の先鞭を付けた人物の一人に数えられる。1974年にNHKを退職後は参議院議員(3期)を務めながらフリーアナウンサーとしても活躍。1990年7月15日、参議院議員在職中のまま死去。 』
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高峰譲吉墓所

『高峰 譲吉(たかみね じょうきち、嘉永7年11月3日(1854年12月22日) - 大正11年(1922年)7月22日)は、日本の科学者、実業家。名誉工学博士・薬学博士。タカジアスターゼ、アドレナリンを発見し、アメリカ合衆国で巨万の財を成した[2]。三共創業者。現在の富山県高岡市生まれ。現在の東京大学工学部の前身の一つである工部大学校卒。理化学研究所の設立者の一人。1912年帝国学士院賞受賞、1913年帝国学士院会員。』
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b>◆原口兼済墓所

『原口 兼済(はらぐち けんさい、1847年4月2日(弘化4年2月17日) - 1919年(大正8年)6月18日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。貴族院議員、男爵。 』
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塩月弥栄子墓所

『塩月 弥栄子(しおつき やえこ、1918年4月4日 - 2015年3月8日)は、日本の茶道家、冠婚葬祭評論家。茶名は宗芯(そうしん)。茶道裏千家的伝名誉教授、淡交会顧問を務めた。旧姓は千(せん)、父は裏千家14世家元碩叟宗室。弟は第15世家元汎叟宗室[1]。娘に茶道家の五藤禮子がいる。
庶民の着物とは異なる補正や道具などを多用する着付けの方法や着付け教室やその免状システムを戦後広めた人物であるとされる。 』
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◆西徳二郎・竹一墓所

西 徳二郎
『西 徳二郎(にし とくじろう、1847年9月4日(弘化4年7月25日) - 1912年3月13日)は、日本の外交官、枢密顧問官、薩摩藩出身の男爵。
若年のころはロシアの帝都サンクトペテルブルクに遊学し、その後はロシア・中国(清)両勢力圏に挟まれる中央アジアを調査した経歴を持つ。1886年6月より10年の長きにわたってロシア公使を務めたロシア通として知られた。1897年11月より約1年半外務大臣に任じられ、その間、大韓帝国をめぐる日露関係の調整に努めた。1900年の義和団の乱において1か月半におよぶ北京籠城を経験している。嗣子は、乗馬の選手として1932年のロサンゼルスオリンピックで金メダリストとなり、のち太平洋戦争末期の硫黄島の戦いで戦没した「バロン西」こと西竹一陸軍大佐である。 』
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西 竹一
『 竹一(にし たけいち、1902年(明治35年)7月12日 - 1945年(昭和20年)3月22日)は、日本の陸軍軍人、華族(男爵)。最終階級は陸軍大佐。愛称・通称はバロン西(バロン・ニシ、Baron Nishi)。
1932年ロサンゼルスオリンピック馬術障害飛越競技の金メダリスト。西が獲得した金メダルは、2019年現在、夏季オリンピック馬術競技で日本が獲得した唯一のメダルである。
帝国陸軍将校として騎兵畑を歩んでいたが、のちには戦車兵に転科し、第二次世界大戦末期の、硫黄島の戦いにおいて、戦車第26連隊長として戦死した。 』
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◆旧八戸藩主南部子爵家墓所

八戸藩
八戸藩(はちのへはん)は、陸奥国三戸郡八戸に藩庁を置き南部家が治めていた藩。

南部氏ー明治時代
『明治時代になると、盛岡藩主の南部氏および八戸藩七戸藩の2分家は華族に列せられ、明治17年1884年華族令施行により旧・盛岡藩主の南部利恭は伯爵、分家の旧・八戸藩主の南部利克および旧・七戸藩主の南部信方は子爵とされた。九戸政実実弟の中野康実の系譜を引く中野氏は一般の士族とされた。なお、八戸氏および中野氏は、江戸時代末期より、南部を称することを盛岡藩主の南部氏より許されていた。
明治期中頃からは旧臣の家系で政友会の実力者であった原敬が、南部諸家の家政に対する助言をしばしば行うようになった[39]。明治29年(1896年)には八戸氏を称していた根城南部氏(遠野南部氏)が南朝天皇への忠節を賞して特旨をもって華族に列せられ、当主の南部行義は男爵とされた[40]。遠野南部家は明治維新以来財政が窮乏し、伯爵家から援助が行われている。南部利恭の長男で南部氏第42代当主の利祥は日露戦争で戦死し、利祥には子がなかったので、利恭の次男で利祥の弟の利淳が第43代当主を相続した。利淳には一男一女がいたが、長男の利貞は早世したために、長女の瑞子に公爵一条実輝の三男の利英が婿入りして第44代当主を相続した。第45代当主の南部利昭は利英の三男で、靖国神社宮司を務めたが平成21年(2009年)1月7日死去。
なお、鎌倉時代から明治維新まで同じ所領に居続けることができたのは南部氏のほかには薩摩の島津氏などごく少数で、所領が中央政権(幕府)から遠く離れていたのが理由と考えられている。 』






◆旧鍋島侯爵家墓所

鍋島 直大
『鍋島 直大(なべしま なおひろ)は、幕末期の大名。肥前国佐賀藩11代(最後の)藩主。明治・大正時代の政府高官。従一位勲一等侯爵。
佐賀藩第10代藩主・鍋島斉正(直正)の長男。初名は直縄(なおただ)で、明治維新以前(藩主在任中)は将軍徳川家茂偏諱を冠し茂実(もちざね)と名乗っていた。 』
『大正10年(1921年薨去、享年76。墓地は菩提寺の賢崇寺ではなく青山霊園だったが、平成になり鍋島家が青山霊園墓所を墓じまいし、春日山に改葬された。佐嘉神社には父・直正とともに祀られている。』
※現在は資材置き場のようになっていた。



続く。