2025/01/29 多磨霊園(1/29、1/30、2/05)


1/29、1/30、2/05 3回に分けて訪れた。






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2025/01/29
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江戸川乱歩 墓所

『江戸川 乱歩(えどがわ らんぽ、旧字体:江戶川 亂步、本名:平井 太郎〈ひらい たろう〉[1]、1894年〈明治27年〉10月21日 - 1965年〈昭和40年〉7月28日)は、日本の推理作家、怪奇・恐怖小説家[※ 1]、アンソロジスト[※ 2]。日本推理作家協会初代理事長。位階は正五位。勲等は勲三等。ペンネームの由来は、小説家のエドガー・アラン・ポー[2][※ 3]のもじり。
大正から昭和期にかけて活躍し、主に推理小説を得意とした。また、第二次世界大戦後は推理小説分野を中心に評論家や研究家、編集者としても活躍した。乱歩の寄付で創設された江戸川乱歩賞が推理作家の登竜門となるなど、後世にも大きな影響を与えた。 』
江戸川乱歩 - Wikipedia







牟田口廉也 墓所

『牟田口 廉也(むたぐち れんや、1888年明治21年)10月7日 - 1966年(昭和41年)8月2日)は、日本の陸軍軍人。陸士22期・陸大29期。最終階級は陸軍中将。盧溝橋事件や、太平洋戦争開戦時のマレー作戦や同戦争中のインパール作戦において部隊を指揮した。 』
牟田口廉也 - Wikipedia







美濃部達吉・亮吉の墓

『美濃部 達吉(みのべ たつきち、1873年明治6年〉5月7日 - 1948年〈昭和23年〉5月23日)は、日本の法学者、憲法学者、政治家。東京帝国大学名誉教授。天皇機関説を主張し、大正デモクラシーにおける代表的理論家として知られる。昭和期には天皇機関説事件により、貴族院議員を辞職した。戦後の1948年には勲一等旭日大綬章を受章。一木喜徳郎門下。弟子に清宮四郎、宮沢俊義、柳瀬良幹、田中二郎、鵜飼信成、田上穣治など。 』
美濃部達吉 - Wikipedia

『美濃部 亮吉(みのべ りょうきち、1904年2月5日 - 1984年12月24日)は、日本のマルクス経済学者、政治家、教育者。東京都知事(第6・7・8代)、参議院議員(全国区、1期)を歴任。 』
美濃部亮吉 - Wikipedia








田河水泡の墓

『田河 水泡(たがわ すいほう、1899年〈明治32年〉2月10日 - 1989年〈平成元年〉12月12日)は、日本の漫画家、落語作家。本名︰高見澤 仲太郎(たかみざわ なかたろう)。
昭和初期の子供漫画を代表する漫画家であり、代表作『のらくろ』ではキャラクター人気が大人社会にも波及し、戦後もさまざまなキャラクターグッズが作られるなど、社会現象となるほどの人気を獲得した。 』
田河水泡 - Wikipedia








多磨霊園のムネノキ







出石藩主仙石子爵家墓所

出石藩(いずしはん)は、但馬国に存在した藩。藩庁は出石城兵庫県豊岡市出石町)。 』

『外様 5万8000石→3万石 (1706年 - 1871年
政明(まさあきら)〔従五位下、越前守〕
政房(まさふさ)〔従五位下信濃守 寺社奉行
政辰(まさとき)〔従五位下、越前守〕
久行(ひさゆき)〔従五位下、刑部少輔〕
久道(ひさみち)〔従五位下、越前守〕
政美(まさよし)〔従五位下、越前守〕
久利(ひさとし)〔従五位下、越前守〕 仙石騒動により3万石
政固(まさかた)〔従五位下、越前守。従二位、子爵〕』
出石藩 - Wikipedia






直木三十五追悼碑

直木三十五ノ文名ハ自ラ不朽ニシテ金石ニ刻ンデ後世ニ伝フル必要ナキヲ信ズ タダ知友彼を偲ブノ情此處ニコノ碑石ヲ建ツ 後人コノ碑畔ヲ過ギリテ思ヒヲ彼ノ作品ニ走スルコトアラバ幸也






◆藤山雷太翁顕彰碑

『藤山 雷太(ふじやま らいた、1863年9月13日(文久3年8月1日)- 1938年(昭和13年)12月19日)は、佐賀藩出身の明治・大正・昭和の実業家、貴族院勅選議員。
福澤諭吉門下直系の実業家として、東京商業会議所会頭、芝浦製作所所長、大日本製糖社長、藤山同族社長、大日本製氷会長、日印協会理事、また三井財閥安田財閥・共同の各信託会社の相談役・取締役等を歴任し、藤山コンツェルンを創立した。正五位勲三等。
1919年(大正8年)に藍綬褒章、1923年(大正12年)に紺綬褒章を受章。次いでフランス政府からレジオン・ドヌール・シュバリエ勲章を受章。安南(現在のベトナム)国王からはグラン・オフィシェ・ド・ランテン勲章を贈られた。 』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%B1%B1%E9%9B%B7%E5%A4%AA





判読できなかった・・・・。
ご存じの方がいらっしゃいましたら教えてください。
ぺこ <(_ _)>






◆松本荘一郎墓

『松本 荘一郎(まつもと そういちろう、1848年6月23日(嘉永元年5月23日[1]) - 1903年明治36年)3月19日[2])は、日本の鉄道官僚、技術者。工学博士。幼名は泰蔵。政治家の松本烝治の父。
日本で初めて工学博士となった5人のうちの1人。他に古市公威、原口要、志田林三郎、長谷川芳之助がいる。 』
松本荘一郎 - Wikipedia



『松本 烝治(まつもと じょうじ、明治10年(1877年)10月14日 - 昭和29年(1954年)10月8日)は、日本の法学者。専門は商法。東京府士族。学位は法学博士。戦後、憲法草案(松本試案)を作成したことで知られる。松本荘一郎の子。岡野敬次郎に師事[2]。弟子に田中耕太郎、田中誠二など。』
松本烝治 - Wikipedia






◆小泉信吉・信三の墓

『小泉信吉(こいずみ しんきち、1918年(大正7年)1月17日 - 1942年(昭和17年)10月22日) 小泉信三の長男。1.の孫。海軍主計大尉。第二次世界大戦中南太平洋方面で戦死。墓所多磨霊園。』
小泉信吉 - Wikipedia

『小泉信吉 (1849-1894年) - 父。藩の留学生として江戸の慶應義塾で学び、後に慶應義塾長を務める。45歳で早世。』
小泉信三 - Wikipedia

『小泉 信三(こいずみ しんぞう、1888年明治21年)5月4日 - 1966年(昭和41年)5月11日)は、日本の経済学者、第7代慶應義塾長。
イギリス古典学派のリカード研究のほか、日本における社会思想研究の先駆者として活動するとともに、マルクス主義への容赦ない批判者として、自由主義の立場から『資本論』の内容をめぐって河上肇や、櫛田民蔵との活発な論戦を展開した。1933年(昭和8年)から1946年(昭和21年)まで慶應義塾長を務めた。東宮御教育常時参与として皇太子明仁親王(第125代天皇)の教育責任者にもなり、皇室の近代化に努めた[1]。学士院会員、コロンビア大学名誉文学博士、文化勲章受賞、名誉都民、野球殿堂入り[2]。日本聖公会のクリスチャン[3]。位階は正三位。父は慶應義塾長(1887年(明治20年) - 1890年(明治23年))や、横浜正金銀行支配人などを歴任した小泉信吉(こいずみ のぶきち)。 』
小泉信三 - Wikipedia








◆丸山敏雄御墓所

『丸山 敏雄(まるやま としお、1892年5月5日 - 1951年12月14日)は、日本の教育者、社会教育家、書家。倫理研究所、秋津書道院、しきなみ短歌会の創立者[4]。戦後の日本において、倫理運動と呼ばれる生活改善運動を創始した。』
丸山敏雄 - Wikipedia








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2025/01/30
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児玉源太郎 墓所

児玉 源太郎(こだま げんたろう、旧字体:兒玉 源太郞、1852年4月14日(嘉永5年閏2月25日) - 1906年明治39年)7月23日)は、明治時代の日本の陸軍軍人、政治家[1]。日露戦争において満洲軍総参謀長を務め、勝利に貢献した。階級は陸軍大将、栄典は正二位勲一等功一級子爵。
児玉源太郎 - Wikipedia







◆坂本葵園の墓

坂本葵園(さかもと きえん)
1827-1881 幕末-明治時代の儒者
参考
坂本葵園(さかもと きえん)とは? 意味や使い方 - コトバンク









◆Abdurreshid Ibrahim Efendi Tomb

google mapには記念碑と書いてある。
現地ではどれかわからなかったので遠くから撮っておいた。
真ん中、後ろの方に建っている上に玉子型のものがのっているのがそうみたいだ。







◆田中銀之助墓所

『田中 銀之助(たなか ぎんのすけ、1873年明治6年〉1月20日 - 1935年〈昭和10年〉8月27日)は「天下の糸平」と呼ばれた相場師・田中平八の孫。英国ケンブリッジ大学に留学し、帰国後ラグビーを日本に伝えた。』
田中銀之助 - Wikipedia



日本ラグビーフットボールの父
田中銀之助
一八九九年(明治三年)イギリス ケンブリッジ大学留学から帰国した学習院尋常中等科出身の田中銀之助は、慶應義塾大学の英語教師であった盟友E-B クラークと共に塾生に日本で初めてラクビーフットボールを指導し、続いて母校の学習院にも伝えるなどの普及活動を行い今日における日本ラグビー繁栄の礎を築いた。







大野藩主土井家墓所

google mapの場所に来てみたが、更地になっていた。
おそらくここで良いと思う。

大野藩(おおのはん)は、越前国大野郡の大野城亀山城。現在の福井県大野市)を居城とした藩。1624年に越前松平家が入封して成立。1682年に土井利房が4万石で入り、廃藩置県まで譜代大名の土井家が8代約190年続いた。 』
大野藩 - Wikipedia







徳大寺実則公爵墓所

『德大寺 實則(とくだいじ さねつね、天保10年12月6日〈1840年1月10日〉 - 1919年〈大正8年〉6月4日)は、日本の公卿、政治家。宮内卿内大臣明治天皇侍従長等を務めた。位階・勲等・爵位従一位大勲位公爵。新字体で徳大寺 実則と表記されることもある。 』
徳大寺実則 - Wikipedia







◆元老 西園寺公望

『西園寺 公望(さいおんじ きんもち、嘉永2年10月23日〈1849年12月7日〉 - 昭和15年〈1940年〉11月24日)は、日本の公家、政治家、教育者。位階・勲等・爵位従一位大勲位公爵。雅号は陶庵、不読、竹軒。』
西園寺公望 - Wikipedia








高橋是清の墓

『高橋 是清(たかはし これきよ、旧字体:高橋 是淸、1854年9月19日〈嘉永7/安政元年閏7月27日[1]〉 - 1936年〈昭和11年〉2月26日)は、日本の政治家。日本銀行総裁
立憲政友会第4代総裁。第20代内閣総理大臣(在任: 1921年〈大正10年〉11月13日 - 1922年〈大正11年〉6月12日)。栄典は正二位大勲位子爵。幼名は和喜次。
日露戦争の戦費調達のための外債募集を成功させたことで、近代日本を代表する財政家として知られることから、総理大臣としてよりも、大蔵大臣としての評価の方が高い。愛称は『ダルマさん』。二・二六事件で暗殺された。 』
高橋是清 - Wikipedia







◆黒木為楨大将の墓所

『黒木 為楨(くろき ためもと、旧字体:黑木 爲楨、1844年5月3日〈天保15年3月16日〉- 1923年〈大正12年〉2月3日)は、日本の陸軍軍人[1]。最終階級は陸軍大将。伯爵。通称は七左衛門。』
黒木為楨 - Wikipedia







◆旧多磨霊園噴水塔







東郷平八郎の墓

『東郷 平八郎(とうごう へいはちろう、旧字体:東鄕 平󠄁八郞、1848年1月27日〈弘化4年12月22日〉 - 1934年〈昭和9年〉5月30日)は、日本の海軍軍人[2]。最終階級は元帥海軍大将。各地の東郷神社に名を残す。位階は従一位勲位大勲位、功級は功一級、爵位は侯爵。
日清戦争では「浪速」艦長として高陞号事件に対処。日露戦争では連合艦隊司令長官として指揮を執り日本海海戦での完勝により国内外で英雄視され、「陸の大山、海の東郷[3]」「東洋のネルソン[4](The Nelson of the East[5])」と呼ばれた。 』
東郷平八郎 - Wikipedia








山本五十六 墓所

『山本 五十六(やまもと いそろく、1884年明治17年〉4月4日 - 1943年〈昭和18年〉4月18日)は、日本の海軍軍人。最終階級は元帥海軍大将。栄典は正三位大勲位功一級。
新潟県長岡出身。旧姓は高野(たかの)。海兵32期、海大甲種14期。第26、27代連合艦隊司令長官。前線視察の際、ブーゲンビル島の上空で戦死(海軍甲事件)。日本において皇族・華族以外で、国葬を受けた最初の人物である。 』
山本五十六 - Wikipedia








◆古賀峯一墓所

『古賀 峯一(こが みねいち、1885年(明治18年)9月25日 - 1944年(昭和19年)3月31日)は、日本の海軍軍人。最終階級は元帥海軍大将。 海兵34期・海大15期。連合艦隊司令長官在職中に海軍乙事件にて殉職。 』
古賀峯一 - Wikipedia







◆石塔







川合玉堂

『川合 玉堂(かわい ぎょくどう、1873年明治6年〉11月24日 - 1957年〈昭和32年〉6月30日)は、明治・大正・昭和時代の日本で活動した日本画家。本名は 川合 芳三郎(かわい よしさぶろう)。画号は当初「玉舟(ぎょくしゅう)」[1]、間もなく「玉堂」に改め、晩年は終の棲家と同名の「偶庵(ぐあん)」を別号として用いた[1]。長男の真一は化学者で東京教育大学名誉教授。 』
川合玉堂 - Wikipedia







◆鳥居龍雄君 碑

参考
鳥居龍雄君 碑







服部金太郎

『服部 金太郎(はっとり きんたろう、1860年11月21日(万延元年10月9日) - 1934年(昭和9年)3月1日[1])は、日本の実業家、日本赤十字社常議員。服部時計店(現セイコーグループ)の創業者。輸入時計の販売店を開業し、のちに掛時計・腕時計の製造・販売へと事業を拡大して「世界のセイコー」の礎を築き、「日本の時計王」とも呼ばれる。 』
服部金太郎 - Wikipedia








◆甘粕正彥の墓

見つからなかった。
遠景で撮っては見たけど手掛かりも見当たらず・・・・・。

『甘粕 正彦(あまかす まさひこ、1891年〈明治24年〉1月26日 - 1945年〈昭和20年〉8月20日)は、日本の陸軍軍人。
陸軍憲兵大尉時代にアナキスト大杉栄らを殺害した甘粕事件で知られる。事件後、短期の服役を経て日本を離れて満洲に渡って関東軍の特務工作を行い、満洲国建設に一役買う。満洲映画協会理事長を務め、終戦の最中に現地で服毒自殺した。 』
甘粕正彦 - Wikipedia







◆海軍大佐水城圭次君碑

『水城 圭次(みずしろ けいじ、1883年〈明治17年〉11月10日 - 1927年〈昭和2年〉12月26日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。』
水城圭次 - Wikipedia








◆棚倉藩主阿部家の墓

『棚倉藩(たなぐらはん)は、陸奥国磐城国)白河郡・菊多郡・磐前郡・磐城郡などを支配した藩。藩庁は白河郡棚倉城に置かれた(現在の福島県東白川郡棚倉町)。』
棚倉藩 - Wikipedia







◆武蔵府中郷土かるた

歴史がねむる公園墓地。







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2025/02/05
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内村鑑三墓所

『内村 鑑三(うちむら かんぞう、1861年3月23日〈万延2年2月13日〉 - 1930年〈昭和5年〉3月28日)は、日本のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者。福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた。『代表的日本人』の著者でもある。』
内村鑑三 - Wikipedia







吉田豊彦陸軍大将の墓所

『吉田 豊彦(よしだ とよひこ、明治6年1873年)11月1日 - 昭和26年(1951年)1月10日)は、日本の陸軍軍人。陸軍省兵器局長、陸軍造兵廠長官、陸軍技術本部長等を歴任し、階級は陸軍大将勲一等功四級に至る。軍を退いてからは日本製鐵取締役や満州電業社長を務める。 』
吉田豊彦 (陸軍軍人) - Wikipedia







岡田啓介墓所

『岡田 啓介(おかだ けいすけ、1868年2月14日〈慶応4年1月21日〉- 1952年〈昭和27年〉10月17日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将。栄典は正二位勲一等功三級。
田中義一内閣で海軍大臣を務めたのち、齋藤内閣でも海軍長老として海軍大臣を再び拝命して五・一五事件後の騒然とした海軍省部内を収めた。その斎藤内閣が瓦解したあと大命降下を受けて内閣総理大臣に就任、岡田内閣では一時拓務大臣と逓信大臣を兼任している。二・二六事件で反乱軍に襲撃されたが、義弟で秘書官を務めていた松尾伝蔵が身代わりとなり、奇跡的に難を逃れた。
総理退任後も重臣として度々枢機に与ったが、第二次世界大戦中は東条内閣打倒を自らの責務ととらえ倒閣運動を主導した。晩年に口述した『岡田啓介回顧録』はこの動乱の時代を知る上での貴重な史料となっている。 』
岡田啓介 - Wikipedia







リヒャルト・ゾルゲの墓

リヒャルト・ゾルゲ(ドイツ語: Richard Sorge, ロシア語: Рихард Зорге, 1895年10月4日 - 1944年11月7日)は、ソビエト連邦のスパイ。1933年(昭和8年)から1941年(昭和16年)にかけてゾルゲ諜報団を組織して日本で諜報活動をおこない、ドイツと日本の対ソ参戦の可能性などの調査に従事していたが、ゾルゲ事件の首謀者として日本の警察機関によって逮捕され、刑事裁判で治安維持法および国防保安法違反により死刑判決を受け、処刑された。 』
リヒャルト・ゾルゲ - Wikipedia

ゾルゲ事件ゾルゲじけん)は、ドイツ人ジャーナリストとして来日赴任したリヒャルト・ゾルゲが率いるソ連のスパイ組織が太平洋戦争直前の日本国内で諜報活動および謀略活動を行ったとして摘発された事件である。1941年9月から1942年4月にかけその構成員が逮捕された事件。日本人協力者には、近衛内閣のブレーンとして日中戦争を推進した元朝日新聞記者の尾崎秀実や、有罪となり廃嫡となった華族西園寺公一らもいた。 』
ゾルゲ事件 - Wikipedia



ゾルゲとその同志たち
河村好雄
『河村好雄 未決勾留中、1942年12月15日獄死』
ゾルゲ事件 - Wikipedia

宮城与徳
『宮城 与徳(旧字体:宮城󠄀 與德、みやぎ よとく、1903年2月10日 - 1943年8月2日)は、日本の洋画家、左翼運動家、社会運動家。「南龍一」と名乗り、ゾルゲ諜報団に参加した。ソ連のスパイとしてゾルゲ事件に関与して逮捕され、勾留先で病死した。 』
宮城与徳 - Wikipedia

尾崎 秀実
『尾崎 秀実(おざき ほつみ、1901年(明治34年)4月29日 - 1944年(昭和19年)11月7日)は日本のジャーナリスト・評論家。朝日新聞社記者、内閣嘱託、満鉄調査部嘱託職員を務める。 共産主義者であり、ソ連のスパイ・扇動者としても活動した。
近衛文麿政権のブレーンとして、政界・言論界に重要な地位を占め、軍部とも独自の関係を持ち、日中戦争支那事変)から太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直前まで政治の最上層部・中枢と接触し国政に影響を与えた。
共産主義者であり[注釈 1]、革命家としてリヒャルト・ゾルゲが主導するソビエト連邦の諜報組織「ゾルゲ諜報団」に参加。最終的にゾルゲ事件(「ゾルゲ゠尾崎事件」とも呼ばれる[1])として1941年(昭和16年)に検挙され、首謀者の1人として裁判を経て死刑に処された。共産主義者としての活動は同僚はもちろん妻にさえ隠し、自称「もっとも忠実にして実践的な共産主義者」[2]として、逮捕されるまで正体が知られることはなかった。
筆名として白川次郎[3]、草野源吉[4]を用いた。 』
尾崎秀実 - Wikipedia

ブランコ・ヴケリッチ
『ブランコ・ド・ヴーケリッチ(Branko Vukelić、1904年8月15日 - 1945年1月13日)は、クロアチア出身のユーゴスラビア人のスパイで、ゾルゲ諜報団のひとり。 ブランコ・ヴケリッチとも表記される。日本名として武家 利一。
日本ではユーゴスラビア紙ポリティカやフランス・アヴァス通信社(現在のAFPの前身)のジャーナリストとして活動したが、ゾルゲ事件で検挙された。逮捕後、無期懲役の判決を受けて網走刑務所に服役したが、健康を悪化させて獄死した。 』
ブランコ・ド・ヴーケリッチ - Wikipedia

北林とも
特高警察は1930年代より、日本での共産党関係者の検挙者の情報や、アメリカ連邦捜査局(FBI)の資料などからアメリ共産党の日本人党員の情報を収集し、アメリ共産党党員である宮城与徳やその周辺に内偵をかけていた。宮城や、同じアメリ共産党員で1939年に帰国した北林トモなどがその対象であった。これらの共産党関係者に内偵を続けスパイ網が発覚し、本格的な捜査摘発につながったとされている。』
ゾルゲ事件 - Wikipedia

船越寿雄
『船越寿雄 懲役10年(1945年2月27日獄死)』
ゾルゲ事件 - Wikipedia

水野成
『水野成 懲役13年(1945年3月22日獄死)』
ゾルゲ事件 - Wikipedia

田口右源太
『田口右源太 懲役13年(1945年10月6日釈放)』
ゾルゲ事件 - Wikipedia

九津見房子
『九津見 房子(くつみ ふさこ、1890年10月18日 - 1980年7月15日)は、日本の社会運動家社会主義者。日本最初の社会主義女性団体「赤瀾会」の創設者の一人。女性として初めて治安維持法により服役し、ゾルゲ事件にも連座して再度入獄した。 』
九津見房子 - Wikipedia

川合貞吉
『川合 貞吉(かわい ていきち、1901年9月15日 - 1981年7月31日)は、日本の社会運動家、著述家である。21世紀になって公開された資料により、第二次世界大戦後は連合国軍最高司令官総司令部GHQ)参謀第2部(G2)のエージェントとなっていたことが判明している。 』
川合貞吉 - Wikipedia


ゾルゲの略歴



ふた昔 過ぎて花咲く わが与徳 多磨のはらから さぞや迎えん. 宮城与整







◆住友寛一 墓所

『財閥家族の指定
財閥家族の企業支配力を分散し、人的関係の切断がはかられたのが、財閥家族の指定であり、そして1947年11月に成立した「財閥同族支配力排除法」であった。持株会社整理委員会は、占領軍当局の指令を受けて、財閥家族の範囲を確定する基準を下記のように選択した。
財閥家族姓を名乗る尊卑族三親等およびその家族(姻族を含まず)
所有有価証券、現金、預貯金額計100万円以上
所有家屋500坪、宅地2,000坪、農地山林50町歩以上
当該会社発行株数に対し、持株比率10%以上の株式所有者
企業支配または経営発言力
以上の基準によって、1947年2月、住友家では以下4名が財閥家族に指定された。
第16代住友吉左衛門
住友寛一
住友義輝
住友元夫』
住友家 - Wikipedia








◆門馬将直 墓所

参考
門馬将直









◆敬仰忠烈(忠霊塔)

『忠霊塔(ちゅうれいとう)とは、近代以降の日本において建造された、国家や君主ために忠義や忠誠をもって戦争に出兵し戦死した者の霊に対して、顕彰または称え続けることを象徴として表す塔である。忠魂碑とは異なり忠霊塔は納骨堂を備えていることが前提である。 』
忠霊塔 - Wikipedia







吉川英治 墓所

『吉川 英治(よしかわ えいじ、1892年〈明治25年〉8月11日 - 1962年〈昭和37年〉9月7日)は、日本の小説家。本名:吉川 英次(よしかわ ひでつぐ)。現在の神奈川県横浜市中区出身。文化功労者文化勲章受章者。位階・勲等は従三位・勲一等。
様々な職についたのち作家活動に入り、『鳴門秘帖』などで人気作家となる。1935年(昭和10年)より連載が始まった『宮本武蔵』は多くの読者を獲得し、大衆小説の代表的な作品となった。戦後は『新・平家物語』、『私本太平記』などの大作を執筆。幅広い読者層に親しまれ「国民文学作家」と呼ばれた。宝塚市千種の地名の名付け親。 』
吉川英治 - Wikipedia







◆橋本増治郎の墓



『橋本 増治郎(はしもと ますじろう、1875年(明治8年)4月28日 - 1944年(昭和19年)1月18日)は、愛知県額田郡柱村(現・岡崎市柱)出身の技術者・実業家。
日産自動車ダットサンいすゞ自動車の前身である快進社創立者。 』
橋本増治郎 - Wikipedia







◆宇垣纏 海軍中将墓所

『宇垣 纒(うがき まとめ、1890年(明治23年)2月15日 - 1945年(昭和20年)8月15日)は、日本の海軍軍人。海兵40期・海大22期。最終階級は海軍中将。陣中日記『戦藻録』が有名。』
宇垣纏 - Wikipedia








◆萬霊供養塔







杉山元墓所

『杉山 元(すぎやま げん[1][2][3]/はじめ、1880年明治13年)1月1日 - 1945年(昭和20年)9月12日)は、大日本帝国陸軍軍人。元帥陸軍大将。
福岡県出身。陸軍士官学校卒業(12期)、陸軍大学校卒業(22期)。陸軍大臣教育総監、太平洋戦争開戦時の参謀総長陸軍大臣参謀総長教育総監陸軍三長官を全て経験し元帥にまでなったのは二人しかいない(もう一人は上原勇作)。 』
杉山元 - Wikipedia



杉山元元帥は明治十三年一月二日 旧小倉藩儒者杉山真の長男として生る 性剛毅誠忠其の全生涯を軍に捧げ軍政軍令両面に勲功あり
陸軍大臣兔謀総長教育総監の要職を歴任し遂に元帥に列せらる
大戦の末期東部軍総司令官たり我が国の取るや風に其の責任を痛感し昭和二十年九月十二日市,谷司令部長官室にて従容として自決す
妻啓子赤め意を元帥に通じ自宅に於て殉ず 其の儘忠邦國の至情は一世を感激せしむ 茰に碑を建て之を後世に傳ぶ







岡本太郎・かの子・一平の墓所

『岡本 太郎(おかもと たろう、1911年〈明治44年〉2月26日 - 1996年〈平成8年〉1月7日)は、日本の芸術家・作家。血液型はO型。
1930年(昭和5年)から1940年(昭和15年)までフランスで過ごす。抽象美術運動やシュルレアリスム運動とも接触した。 』
岡本太郎 - Wikipedia



文字化を断念。
ご存じの方がいらっしゃいましたら教えてください。
ぺこ <(_ _)>

最後に川端康成って書いてあるね。








◆井坂直幹墓所

google mapのマークはこの辺りだと思う。
この更地・・・・かな?

『井坂 直幹(いさか なおもと、万延元年9月1日(1860年10月14日) - 大正10年(1921年)7月27日)は、日本の木材実業家、秋田木材株式会社社長。 』
井坂直幹 - Wikipedia







山下奉文陸軍大将の墓所

『山下 奉文(やました ともゆき、1885年(明治18年)11月8日 - 1946年(昭和21年)2月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将、位階勲等は従三位勲一等功三級。
高知県出身。陸士18期・陸大28期恩賜。太平洋戦争の劈頭、第25軍司令官としてイギリス領マレーとシンガポールを攻略した武功、「マレーの虎」の異名で知られる。 』
山下奉文 - Wikipedia




文字化を断念。
ご存じの方がいらっしゃいましたら教えてください。
ぺこ <(_ _)>







◆中島知久平の墓

『中島 知久平(なかじま ちくへい、明治17年1884年)1月1日 - 昭和24年(1949年)10月29日)は、日本の海軍軍人、実業家、政治家。中島飛行機(のちに富士産業、富士重工業を経て、現在のSUBARU)の創始者として知られ、政治家に転じてからは大臣や立憲政友会総裁を務めた。 』
中島知久平 - Wikipedia







北原白秋の墓

『北原 白秋(きたはら はくしゅう、本名:北原 隆吉(きたはら りゅうきち)、1885年(明治18年)1月25日 - 1942年(昭和17年)11月2日)は、日本の詩人、童謡作家、歌人。帝国芸術院会員。
詩、童謡、短歌以外に、新民謡でも『ちゃっきり節』など傑作を残している。生涯に数多くの詩歌を残し、今なお歌い継がれる童謡を数多く発表し活躍した時代は「白露時代」と呼ばれ、三木露風と並び評される近代日本を代表する詩人である。
弟はそれぞれ出版人となり、北原鉄雄は写真・文学系出版社アルスを、北原義雄は美術系のアトリエを創業した。娘は三菱財閥創業家・岩崎家の末裔に嫁いだ。従弟の北原正雄は写真系の玄光社を創業した。 』
北原白秋 - Wikipedia







長谷川町子の墓

『長谷川 町子(はせがわ まちこ、1920年大正9年)1月30日 - 1992年(平成4年)5月27日)は、日本の女性漫画家。日本初の女性プロ漫画家[1]。代表作に『サザエさん』・『いじわるばあさん』・『エプロンおばさん』など。』
長谷川町子 - Wikipedia







平沼騏一郎 墓所

『平沼 騏一郎(ひらぬま きいちろう、1867年10月25日〈慶応3年9月28日〉- 1952年〈昭和27年〉8月22日[1])は、日本の司法官僚、検察官、政治家。位階勲等爵位は正二位勲一等男爵。学位は法学博士。号は機外。
大審院検事局検事総長(第8代)、大審院長(第11代)、日本大学総長(第2代)、大東文化学院総長(初代)、財団法人大東文化協会会頭(第3代)、司法大臣(第26代)、貴族院議員、枢密院副議長(第11代)、枢密院議長(第17・21代)、内閣総理大臣(第35代)、国務大臣、内務大臣(第62代)を歴任。 』
平沼騏一郎 - Wikipedia







大平正芳墓所

『大平 正芳(おおひら まさよし、1910年〈明治43年〉3月12日 - 1980年〈昭和55年〉6月12日)は、日本の大蔵官僚、政治家。位階は正二位。勲等は大勲位
池田勇人の秘書官を経て政界に進出。宏池会会長として三角大福中の一角を占め、田中角栄内閣の外相として日中国交正常化に貢献。首相就任までに椎名裁定、三木おろし、大福密約といった苦難があり、更に首相就任後も四十日抗争やハプニング解散で体力を消耗し、選挙中に首相在任のまま死去。田園都市構想や一般消費税構想は実現しなかった。「アーウー宰相」や「讃岐の鈍牛」の異名がある。
衆議院議員(11期)、内閣官房長官(第21・22代)、外務大臣(第85・86・95・96代)、通商産業大臣(第29代)、大蔵大臣(第79・80代)、内閣総理大臣(第68・69代)を歴任。読書家、クリスチャン(聖公会)として知られ、「戦後政界指折りの知性派」との評もある。 』
大平正芳 - Wikipedia



大平正芳先生は明治四十三年、香川県に生れ 東京商科大学に学び、大蔵省に奉職した後 政界に志し 内閣官房長官 外務通産大蔵の各大臣 自由民主党幹事長等の要幟を歴任 昭和五十三年内閣総理大臣に就任した その業績は日中国交の回復 首脳外交の推進 活力ある経済政策の展開など多岐に亘った 先生はよく内外の信頼に応え 人びとの幸せのため渾身のカを奮ったが、昭和五十五年六月十二日 現職内閣総理大臣としてその職に殉じた 正二位大勲位に叙され、その偉業は時と共に光彩を放つ、享年七十歳







高橋是清子爵家墓所

『高橋 是清(たかはし これきよ、旧字体:高橋 是淸、1854年9月19日〈嘉永7/安政元年閏7月27日[1]〉 - 1936年〈昭和11年〉2月26日)は、日本の政治家。日本銀行総裁
立憲政友会第4代総裁。第20代内閣総理大臣(在任: 1921年〈大正10年〉11月13日 - 1922年〈大正11年〉6月12日)。栄典は正二位大勲位子爵。幼名は和喜次(わきじ)。
日露戦争の戦費調達のための外債募集を成功させたことで、近代日本を代表する財政家として知られることから、総理大臣としてよりも、大蔵大臣としての評価の方が高い。愛称は「ダルマさん」。二・二六事件で暗殺された。 』
高橋是清 - Wikipedia








西郷従道墓所

『西郷 従道(さいごう じゅうどう / つぐみち、旧字体:西鄕 從道󠄁、1843年6月1日(天保14年5月4日) - 1902年(明治35年)7月18日)は、日本の政治家。最終階級は元帥海軍大将、陸軍中将。栄典は従一位大勲位功二級侯爵。名前は「つぐみち」だが、西郷家では「じゅうどう」が正訓となっている[3][4]。兄の西郷隆盛が「大西郷」と称されるのに対し、従道は「小西郷」と呼ばれている。
文部卿(第3代)、陸軍卿(第3代)、農商務卿(第2代)、元老、海軍大臣(初・4代)、内務大臣(第2・14代)、貴族院議員を歴任した。 』
西郷従道 - Wikipedia








◆馬場鍈一像

『馬場 鍈一(ばば えいいち、1879年(明治12年)10月5日 – 1937年(昭和12年)12月21日)は、日本の政治家、大蔵官僚。法制局長官、日本勧業銀行総裁、貴族院勅選議員、広田内閣大蔵大臣、第一次近衛内閣内務大臣を歴任した。積極財政派で、蔵相時代に大規模な省内人事の刷新や極端な積極財政を行った馬場財政で知られる。 』
馬場鍈一 - Wikipedia








◆山本条太郎 胸像碑

『山本 条太郎(やまもと じょうたろう、1867年11月6日(慶応3年10月11日) - 1936年(昭和11年)3月25日)は日本の実業家・政治家。三井物産の経営に携わったのち代議士となり、南満洲鉄道(満鉄)社長として満洲開発に尽力した。』
山本条太郎 - Wikipedia








田中義一墓所

『田中 義一(たなか ぎいち、1864年7月25日〈元治元年6月22日〉 - 1929年〈昭和4年〉9月29日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。勲等は勲一等。功級は功三級。爵位は男爵。
陸軍大臣貴族院議員、内閣総理大臣(第26代)、外務大臣(第42代)、内務大臣(第45代)、拓務大臣(初代)を歴任した。 』
田中義一 - Wikipedia







西尾藩主 松平乗完墓碑

見つからなかった。
この辺りで良いと思うのだが・・・・。
ご存じの方がいらっしゃいましたら教えてください。
ぺこ <(_ _)>

西尾藩(にしおはん)は、江戸時代に三河国に存在した藩。西尾城(現愛知県西尾市)を居城とした。藩主は、本多家(膳所)、松平家 (大給府内)、太田家、井伊家(与板)、増山家、土井家(刈谷)、三浦家、松平家(大給西尾)が就封した。 』
西尾藩 - Wikipedia

『松平 乗完(まつだいら のりさだ)は、江戸時代中期の大名・老中。三河国西尾藩2代藩主。大給松平家宗家12代。官位は従四位下・和泉守、侍従。 』
松平乗完 - Wikipedia







岩村通世 墓所

こちらも見当たらなかった。
google mapのPC版ではマークがあるだけで、名前は表示されなくなっている。
ご存じの方がいらっしゃいましたら教えてください。
ぺこ <(_ _)>

岩村 通世(いわむら みちよ、明治16年(1883年)8月21日 - 昭和40年(1965年)3月13日)は、太平洋戦争開戦、ドーリットル空襲の時の日本の司法大臣であり法曹会幹部である。』
岩村通世 - Wikipedia







与謝野晶子・鉄幹墓所

『与謝野 晶子(よさの あきこ、正字:與謝野 晶子、1878年明治11年〉12月7日 - 1942年〈昭和17年〉5月29日)は、日本の歌人、作家、思想家。本名は与謝野 志やう(よさの しょう)。旧姓は鳳(ほう)。ペンネームの「晶子」の「晶」は、本名から取ったもの。夫は、同じく歌人与謝野鉄幹
雑誌『明星』に短歌を発表しロマン主義文学の中心的人物となった。 』
与謝野晶子 - Wikipedia

『与謝野 鉄幹(よさの てっかん、正字: 與謝野 鐵幹、1873年明治6年〉2月26日 - 1935年〈昭和10年〉3月26日)は、日本の歌人。本名は与謝野 寛(よさの ひろし)。鉄幹は号。後に慶應義塾大学教授。文化学院学監。妻は同じく歌人与謝野晶子。 』
与謝野鉄幹 - Wikipedia








◆河田景與子爵墓所

こちらも見当たらなかった。
ご存じの方がいらっしゃいましたら教えてください。
ぺこ <(_ _)>

『河田 景与(かわた かげとも、文政11年10月18日(1828年11月24日) - 明治30年(1897年)10月12日)は、日本の武士(鳥取藩士)、政治家。幕末期に尊王攘夷の志士として活動し、明治維新後は鳥取県権令(初代)、元老院議官、貴族院議員を歴任した。名(諱)は初め祺景。通称は左久馬(佐久馬)、権次郎。号は研田。爵位は子爵。 』
河田景与 - Wikipedia







◆柴山矢八海軍大将・男爵の墓所

『柴山 矢八(しばやま やはち、嘉永3年7月13日(1850年8月20日) - 大正13年1924年)1月27日)は、幕末から明治期の海軍軍人、華族。最終階級は海軍大将。男爵。鹿児島県出身。 』
柴山矢八 - Wikipedia







三島由紀夫(平岡家)の墓

『三島 由紀夫(みしま ゆきお、1925年〈大正14年〉1月14日 - 1970年〈昭和45年〉11月25日)は、日本の小説家、劇作家、随筆家、評論家、政治活動家。本名は平岡 公威(ひらおか きみたけ)。
戦後の日本の文学界を代表する作家の一人であると同時に、ノーベル文学賞候補になるなど、日本語の枠を超え、日本国外においても広く認められた作家である。『Esquire』誌の「世界の百人」に選ばれた初の日本人で、国際放送されたテレビ番組に初めて出演した日本人でもある。 』
三島由紀夫 - Wikipedia








◆尾崎秀実の墓

こちらも見当たらなかった。
ご存じの方がいらっしゃいましたら教えてください。
ぺこ <(_ _)>

ゾルゲさんのお墓の近くに「尾崎秀実」の名前を刻んだ碑があった。

『尾崎 秀実(おざき ほつみ、1901年(明治34年)4月29日 - 1944年(昭和19年)11月7日)は日本のジャーナリスト・評論家。朝日新聞社記者、内閣嘱託、満鉄調査部嘱託職員を務める。 共産主義者であり、ソ連のスパイ・扇動者としても活動した。
近衛文麿政権のブレーンとして、政界・言論界に重要な地位を占め、軍部とも独自の関係を持ち、日中戦争支那事変)から太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直前まで政治の最上層部・中枢と接触し国政に影響を与えた。
共産主義者であり[注釈 1]、革命家としてリヒャルト・ゾルゲが主導するソビエト連邦の諜報組織「ゾルゲ諜報団」に参加。最終的にゾルゲ事件(「ゾルゲ゠尾崎事件」とも呼ばれる)として1941年(昭和16年)に検挙され、首謀者の1人として裁判を経て死刑に処された。共産主義者としての活動は同僚はもちろん妻にさえ隠し、自称「もっとも忠実にして実践的な共産主義者」として、逮捕されるまで正体が知られることはなかった。
筆名として白川次郎、草野源吉を用いた。 』
尾崎秀実 - Wikipedia







◆鉾立金矢海軍中将の墓所

こちらも見当たらなかった。
ご存じの方がいらっしゃいましたら教えてください。
ぺこ <(_ _)>

『 鉾立金矢 少将:1941年10月1日 - 1944年8月1日(1941年10月15日:中将)
兼広海軍工廠長:1941年11月20日 - 1941年12月15日』
第11海軍航空廠 - Wikipedia







◆山室 軍平の墓

『山室 軍平(やまむろ ぐんぺい、1872年9月1日(明治5年7月29日。戸籍上は8月20日) - 1940年(昭和15年)3月13日)は、日本の宗教家、説教者。日本人初の救世軍士官[2](牧師)で、日本人初の日本軍国司令官(日本軍国初代司令官ではない[3])。最終階級は中将[4][5]。岡山県哲多郡則安村(現在の新見市)生まれ。石井十次、アリス・ペティ・アダムス、留岡幸助とともに「岡山四聖人」と呼ばれる。 』
山室軍平 - Wikipedia







内田良平之墓

『内田 良平(うちだ りょうへい、旧字体:內田 良平󠄁、1874年〈明治7年〉2月11日 - 1937年〈昭和12年〉7月26日)は、日本の国家主義者・右翼運動家・アジア主義者。黒龍会主幹、大日本生産党総裁。 』
内田良平 (政治運動家) - Wikipedia








田山花袋の墓

『田山 花袋(たやま かたい、1872年1月22日〈明治4年12月13日〉 - 1930年〈昭和5年〉5月13日)は、日本の小説家。本名、録弥()。群馬県(当時は栃木県)生まれ。
尾崎紅葉のもとで修行したが、後に国木田独歩柳田國男らと交わる。『蒲団』『田舎教師』などの自然主義派の作品を発表し、その代表的な作家の一人。紀行文にも優れたものがある。 』
田山花袋 - Wikipedia







◆橋本虎之助の墓

『橋本 虎之助(はしもと とらのすけ、1883年(明治16年)6月6日 - 1952年(昭和27年)1月26日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。位階および勲等、功級は正四位・勲一等・功三級。田内三吉は岳父にあたる。 』
橋本虎之助 - Wikipedia








◆舊棚倉藩士 根岸鎮雄 一族墓

『棚倉藩(たなぐらはん)は、陸奥国磐城国)白河郡・菊多郡・磐前郡・磐城郡などを支配した藩。藩庁は白河郡棚倉城に置かれた(現在の福島県東白川郡棚倉町)。』
棚倉藩 - Wikipedia

参考
根岸莞爾









◆旧噴水塔







琉球国王尚泰王四男・尚順男爵の墓

琉球国王(りゅうきゅうこくおう)は、1872年(清: 同治11年、日本: 明治5年)まで琉球諸島を中心に存在した琉球王国の君主及びその外交称号であり、明及び清に貿易上の理由から朝貢した際に授けられた封号もそれに含まれる。琉球国内では御主と呼ばれた。外交上、ならびに正式名称は琉球國中山王(りゅうきゅうこくちゅうざんおう)。
本項目では、琉球王国成立(1429年)より以前に琉球に君臨し、または君臨したとされる王統についても併記する(#琉球国王の一覧) 』
琉球国王 - Wikipedia

『尚 泰王(しょう たいおう、1843年8月3日〈道光23年7月8日〉- 1901年〈明治34年〉8月19日)は、第二尚氏王統第19代にして最後の琉球国王(在位:1848年6月8日 - 1872年10月16日)、後に日本の華族として琉球藩王(在位:1872年10月16日 - 1879年4月4日)、侯爵。童名は思次良金。父は、第18代国王尚育王。 』
尚泰王 - Wikipedia

『尚 順(しょう じゅん、1873年明治6年)5月2日 - 1945年(昭和20年)6月16日)は、最後の琉球国王尚泰王の四男。男爵で貴族院議員。琉球新報沖縄銀行創立者。』
尚順 - Wikipedia







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