稲荷神社本殿
創建年月は不詳ですが、江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿』に稲荷社」と記述されています。東ケ井戸(ひがしがいと)の鎮守で、祭神は宇迦之御魂之神(うかのみたまのかみ)、建速素戔男尊(たけはやすさのおのみこと)、玉祖命(たまのおやのみこと)です。
もと禅林寺の西南にあったのを明治三十九年にこの地へ移し、平成二年に拝殿覆殿等を大改築しました。
本殿の形は一間社流造(いっけんしゃながれづくり)で、社殿全面に彫刻がほどこされ、江戸時代後期社寺建築様式の典型的建築です。
宮大工小林播磨(はりま)(藤馬(とうま))等の作で、木割帳(きわりちょう)等の記録により、弘化三年(1846)に着手し、嘉永元年(1848)に竣工したものと推定されます。神輿も同人等の作です。
稲荷神社の創建は、久遠にして、今詳らかにすることは宝来ませんが 江戸時代の寛文年間、雨宮宝城が査縄の際神威を提案し、旧友別六畝二十四歩を除税したと伝えられています 降って、明治二年十二月韮山県庁に提出した一朱印、祭地高反別書上帳」にはヶ谷稲荷明神社領反別巻反拾九歩、此訳三敬九歩境内、下旬七畝五歩、又月提出の神社明細書には「稲除神社、多麻神篠本社闇口五尺、興行五尺、社地東百七間、南北拾四間半但御除」と明記されています。この記述により、江戸時代の当神社の概要を知ることが出来ます。明治時代に入人のたまぬ努力により、御神徳が高揚され、神社の警備事業の起されました 上の最も高く、四方を見晴す清地を、新境地と定め、御本殿を遷座しました 続いて本殿覆舎、 拝殿、神庫、宇水舎、石鳥居、山車等建設工事が進められ、大正八年に完成しました、荘厳な祭が修され、地域の人々の心の寄り所とし篤く崇されて参りました。然し、幾時代も過ぎ行きて、諸施設の特化が進み、御神威に相応しい新社殿の建設が望まれていました。氏子崇敬者相臭い、相語らい朝な夕なに夢りし、大御意を落み、孕み奉り、先人の歩んた「神ながらの道」を受継ぎ、更に延べ広めようと、御社殿新築工事を起すことになりました。昭和六十二年八建設委員会を結成し、鈴軾を集え、原尚建築設計事務所の設計に従び、森田木材工業株式会社を中心とした氏子職人衆の施工により、同六十三年十月建設工事に着手しました
以来、建設委員会 工事関係者、互に有睦び、相和みつい飛騨の工匠の打つ星の只一筋に、御社殿を始め、社務所神輿庫、山車庫、祭具庫、手水舎にいたるまで、清く、美しく成し遂げ、平成三年五月十八日竣工奉祝祭を斎行し本事業の全てを完了しました。大空に聳える御屋根、千家堅男木を仰ぎ、御神徳の弥高く輝き、広き厚き「みたまのふゆ』を弥遠長に暮らしめ終えと祈りつゝ、関係各位の神の真心に敬意と感謝の意を表し、御券名を末長く伝えたいと存じ、この碑を建立します。
現在の社殿が改築遷宮されてから二十五年の時を経て平成二十八年秋社の境内も樹木の生長と共に落ち着いてきました
時代の移ろいと共に住宅地との共存と崇敬のための静粛な神社の美しさを保持するために今を節目の時として総代の総意と総代長の決きそして名誉総代長のご賛同さらに宮司のご指導を仰ぎ 東参道への鳥居建立と境内環境の整備を完了したので弦に記す
八雲神社山車
この山車は大正8年(1919) 砂川村一番組(現立川市砂川町) から譲り受けたものです。 八雲神社は稲荷神社に合祀されているので、この境内に所蔵されています。
本体の中央部には盛留(もりどめ)(一本柱)が建てられ、その上に付く六角形の高欄(こうらん)に素盞男尊(すさのおのみこと)と櫛稲田姫(くしなだひめ)の人形が飾られ、正面の柱に絡む昇り龍・降り龍の彫刻はみごとなものです(現在は道路事情により高欄を外して曳いています)。
建立は文久二年(1862)で、手掛けたのは坊村(現入間市宮寺)出身の伊東清右衛門他十四人の大工彫刻
師であると伝えられています。
◆稲荷神社山車修復整備完了碑
稲荷神社の山車は大正八年(1919年) 西多摩村東ケ谷戶(現羽村市羽東)の島田修一郎氏と東町青年団が砂川一番組(現立川市砂川町)から当時の金額四五〇円で購入したと伝えられています
今般稲荷神社山車百年祭に際し、一本柱の取付・屋根の修復・車輪部材改修と鉄輪交換並び山車全体の彫刻等飾り物の修復整備を完了し、百有余年の時を経て創建当時の美しさに甦りました
崇拝者各位のご理解と総代各位のご賛同を得て山車の修復整備を完了したのでここに記す
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