

鹿島神社の創建がきわめて古いということ以外由緒は詳らかでない。
江戸時代の地誌として知られる「新編武蔵風土記稿」や「武蔵名所図会」にも、ただ古社であること以外には記されていない。
しかし御祭神は武甕槌神(武神)で当社の御神体は円形の銅板に三体の小仏像を掛けた験仏(府中市の文化財に指定)で、銅板に弘安七年(1248年)の字が読みとれ、鎌倉時代に作られたことは間違いない。
御神体が仏像とは珍しいとの事である。又古くはもっと東方にあって寛文元年に現在の所に移転再興、この時の棟札に願主西蔵院と書いてあるところから西蔵院が別当寺であったようである。
当社と西蔵院の関係も深いものであった。

有形文化財(工芸品) 鹿島神社懸仏(しまじんじゃ かけぼとけ)
懸仏とは神社に安置する神鏡に仏像をあらわしたもので、かつては神仏習合思想の広がりとともに盛んに制作され、寺社に奉納されていました。当社の御神体である懸仏は、直径約三五センチの円形鋼板に、九センチほどの小鉄仏がはめ込まれており、鎌倉時代の特徴を備えた優品として、市の有形文化財に指定されています。現在は小鉄仏三体が残るのみですが、銅板の取り付け穴跡から判断すると、本来は十体の仏像があったと考えられます。
江戸時代の地誌によれば、寛文十年(1670)に当社を現在地に遷座する際、旧地の地中より出土したといわれています。表面に線刻された銘文には「西刑部宗弘敬白」「弘安七年十一月廿五日」「為諸願成就也」とみえ、鎌倉時代後期の弘安七年(1284)に、西刑部宗弘が諸願成就の為に奉納したことが分かります。西刑部宗弘の詳細は不明ですが、府中近辺に勢力を誇った武蔵武士団として、武蔵七党の西党があり、宗弘はその一員と考えられます。関東平野を駆け巡った武蔵武士が奉納した懸仏は、府中がかつて武蔵国の中心であった事を教えてくれる貴重な文化財です。
なお現在、鹿島神社懸仏は、郷土の森博物館において保存されています。
◆境内社

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