2025/01/30 大沢の里


『大沢の里(ほたるの里)は、三鷹市大沢の野川沿いに位置し、「~ふるさとの自然守ります~ほたるの里 三鷹村」(団体名)の村民のみなさんが管理している、田んぼとその周辺を指す。周辺には、市の三鷹市大沢の里古民家、大沢の里水車経営農家がある。』
大沢の里 - Wikipedia



一部工事中だった。
公園自体はもっとずっと広い。






◆武蔵野の路

 武蔵野の路は、各地域の自然・歴史・文化にふれながら、東京を周回する全長270kmの散策路です。
 東京湾を望む海の路や河川沿いに延びる川の路、緑地や湖を巡る森の路、首都圏自然歩道につながる山の路など、それぞれ特色のある21のコースが用意してあります
 これらの路を徒歩や自転車でたどりながら私たものまち東京の大きさや、変化に富んだ四季の豊かさ、歴史や文化の奥行きの深さにふれてください。






◆彫刻

作品名などわからなかった。
ご存じの方がいらっしゃいましたら、教えてください。






◆雑木林のみち 野川・深大寺コース

 「雑木林」 という言葉は、なんとなく心なごむ “ふるさと” につながるような味わいを持っています。 国木田独歩が、 あの 「武蔵野」で賞揚した武蔵野の風景は、コナラ、クヌギなどの樹種からなる雑木林や畑、 水田、屋敷林等が、 野の道や用水、 崖線の緑によってつづられて構成された “農” の風景でした。 しかし、都市化の進展により、広く都民に親しまれてきたこのような景色は、現在ではほんの一部の地域に残っているだけです。
 東京都では多摩東部地域に残る雑木林を保全し、この雑木林を中心とした武蔵野の風景をつづる道を、都民の憩いの場として積極的に活用することを目的として、 「雑木林のみち」 事業を進めています。 「雑木林のみち」 は、 10コースで構成され、 どのコースも、半日あればゆっくり散策できる長さです。
 このコースは野川・深大寺コースで、 野川の流れと深大寺周辺の崖線に残る雑木林を訪ねる道です。 このコース沿いにつらなる緑は、古代多摩川によって形成された国分寺崖線にのこる林で、ところどころに湧水があり、それと結びついた“農” の風景が今もみられます。






◆崖に眠る軍用防空壕と横穴墓



 戦時中、空襲から身を守るための個人用の防空壕が多数掘られた。 崖線を利用した横穴状で弾薬や燃料格納庫などの軍用大形施設は大沢や中原地区に今もいくつかが残っている。
 この案内板の後ろの崖にあるものもその一つ。 これは幅 高さとも約2m、 全長で115mほどの大形なもので、樹間に封鎖された入ロが見える。
 昭和50年代に三鷹市が測量調査をおこない、危険なものは入口の封鎖、コンクリートによる吹きつけ保護や穴自体の充填が行われている。
 また、この付近から右手の斜面地一帯は古墳現在位置時代後半期 (7世紀) の横穴状に掘られた墓が多数発見され、 出山横穴墓群と呼ばれている。先の防空壕入口のすぐ左手には墓の主要部で遺体を安置する玄室の一部が残されている。
 写真は約200m南にある龍源寺の墓地入口にある 「横穴古墳供養碑」 と 「穴佛」 である。 東京都旧跡の近藤勇の墓の向かいに位置する。 明治時代中頃に村人により発見された横穴出土の人骨が供養されたもの。 整備の際に、付近の防空壕で発見された人骨も手厚く葬られている。 おそらくはこの付近で発見されたものと思われる。
 右手の山道を登り、木戸入口の自然観察路を進むと横穴墓群として8番目に発見された東京都指定史跡の出山横穴墓群8号墓の保存・公開施設がある。







◆竹林




竹林
竹林のもたらす恵み
この竹林は、 中国から渡来した“モウソウチク”という竹の林で、現在では全国的に見られます。
竹は春にたけのこが取れ、物干し竿や竹細工、枝を竹ボウキ、皮を包み紙にするなど、余すことなく使われてきました。
また、竹林は根(地下茎) を縦横にのばし、崖崩れを防ぐ働きもあるといわれます。

モウソウチクの名の由来
昔、中国に住んでいた孟宗という名前の子供が病気の親のため、冬にたけのこを取ってきたというお話に因んで、孟宗竹とつきました。

竹林ができるまで
モウソウチクは移植されると、四方へ地下茎を伸ばし、 たけのこを出して歩しずつ数を増やします。 竹より高い樹木が覆う林には進出できませんが、 開けた所では数年で竹林になります。 花が咲くのはとても珍しく、咲くと、コメのような実がなったあと枯れてしまいます。



崖線と湧き水
国分寺崖線は古多摩川が削り取った河岸段で国分寺から二子多摩川まで続いています。 その地層は富士山や箱根山の火山である関東ローム層で透水性がよく、地表にしみこんだ雨水は地下数メートルの砂礫層に溜り、地下水になります。 この地下水が地表にあらわれ湧き水になります。






◆祠






◆出山遺跡第1号住居跡



三鷹市・出山遺跡第1号住居跡 (縄文時代後期)
 昭和53(1978)年に発掘調査された三鷹市域では珍しい縄文時代後期 (今から約 3,500年前) の竪穴住居跡。 斜面地に造られていたことから、 約半分は後世に土が流失し、 全体の形は不明。 おそらく直径4~5mほどの円形と思われる。
 出土品には、下の注口土器をはじめとする縄文土器、 中央部には火熱の跡を残す河原石や石棒、 磨石などの石器類のほかスギの炭化材がある。
 住居跡は、 この標識の後方の土中に保存されている。

土瓶形の注口土器 (東京都指定有形文化財・考古資料)
全体のかたちは、 胴張りをもった算盤玉状の土瓶形で、 2個一対の連環状の把手が付き、一方にやや上向きの注口部が付いている。
高さ33.8cm、 胴部直径34.0cm。 注ぎ口までの容量は約13ℓ (一升瓶7本分)で、 土瓶形では日本でも最大級の大形品である。
文様は、 主に二重円と長楕円の磨消縄文で構成されている。学術的評価の高い優品である。


内部




須恵器 (すえき)
 現在、 見学室のある墓前域 (ぼぜき)は土が厚く堆積していました。 土の中から須恵器と呼ばれる焼き物の破片が 6点発見され、復元すると平瓶 (へいへい)という形の器 (7世紀)になりました。
 平瓶は日常生活用ではなく、 埋葬や供養の儀式に用いられる器と考えられています。 横穴墓では儀式用の器が、 一部を壊された状態で発見されることが多くあり、この平瓶も首の部分は発見されていません。
 須恵器の発見によって、 8号墓がつくられたのも7世紀頃と考えられます。
なお、 展示品は復元模型です。



出山横穴墓群 8号墓
横穴墓とは何か
古墳時代の後半 (5世紀終わりごろ) から、奈良・平安時代までにつくられた墓で、南九州から東北南部に分布します。 丘陵の斜面や崖を横に掘って、 その中に遺体を埋葬するもので、ふつう数多くの墓がまとまり、 横穴墓群とよばれています。

このあたりに横穴墓があることは、古くから知られていました。現在では発掘調査や地下レーダーによって10基が発見され、一帯が出山横穴墓群とよばれています。
特に8号墓は特徴のある形から、 平成6年3月に東京都史跡に指定されました。



8号墓の特徴
墓の入口である美門 せんもん)はアーチ形の石組みで丈夫につくられています。
内部は細い羨道(せんどう)と遺体が置かれた玄室(げんしつ)とに分かれ、石が敷かれています。 天井もアーチ形で、掘り道具の刃の跡がはっきり残っています。

玄室(げんしつ)は、前室(ぜんしつ)と後室(こうしつ)に区切られています。 4体の人骨が埋葬されていて、40代と30代の男性 20代の女性、8歳の小児だとわかりました。
墓前域ぼぜんいき)では平瓶(ヘ)という形の須恵器(えき)が発見されました。
この器は7世紀に焼かれたもので、墓がつくられたのも同じころと考えられます。



羨門(せんもん)を開いた時のようすです。
入口は126個もの石をつめ込んで閉じられていました。

玄室(げんしつ)内の4体の埋葬人骨です。
一度ではなく、次々に埋葬されたと考えられます。
ついそう
これを追葬といいます。

玄室(げんしつ)のアーチ形天井です。
掘り道具の刃の跡がすじ状に残っています。 鉄製の刃を備えた切れ味の良い道具で掘ったと考えられます。






三鷹市大沢の里古民家

一度訪れたことがある。
今回は寄らなかった。
2022/09/28 三鷹市大沢の里古民家 - ovanの社会科見学




崖線沿いの豊かな自然を観察するためのみちです。
クヌギ・コナラなどの雑木林や竹林、屋敷林や、崖下の湧水を利用したわさび田や水田など農村風景が広がっており、 私たちの生活に密接に結びついた植物が観察できる他、 野鳥や昆虫などの小動物も多く見られます。

また、崖線の中腹には出山横穴墓群とよばれる遺跡が広がり、そのひとつ8号墓(7世紀東京都指定史跡) が保存され、見学施設が設けられています。
ルートに沿ってゆっくりと散策をお楽しみください。
なお、 夜間は閉鎖いたします。







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