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https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2025/05/18/180000
品川歴史観
品川歴史は、品川区の文化と歴史を紹介し、郷土資料の保存と活用、区民文化の向上を目的に昭和60年に開館しました。常設展示では、東海道第一番目の宿場として栄えた品川宿を中心に、原始・古代から現代にいたるまでの品川の歴史が学べるようわかりやすく展示しています。
特別展や企画展、コーナー展示、各種講座や講演会などを随時行っています。庭園には四季折々の自然や昭和初期に建てられた茶室「松済庵」、江戸の風雅を感じさせる音色を楽しめる水琴窟があります。
大森貝塚遺跡庭園
大森貝塚は、明治10年エドワード・シルヴェスター・モース博士によって日本ではじめて科学的な発掘調査が行われ、日本考古学発祥の地と言われています。 昭和30年には国の史跡に指定されました。遺跡庭園の入口部分には縄文の扉という縄文模様や土器片の彫刻を施した曲線形状の塀が設置されています。入口を進むと霧のミストを見ることができ、時間を超えて過去と現代を共生させる幻想的な空間を演出しています。 さらに進むと、大森貝塚や縄文時代について学習できる説明板や施設があります。
◆大連
ご一緒の方の中で食べに行ったことがあり、大変おいしかったとのこと。
行ってみたい。
◆日夏耿之介旧居跡
『大森丘の会』のひとり 日夏耿之介(1890~1971) 詩人・英文学者
「われら大森グルッペ」
馬込に大勢の文士たちが入り込み、分士村と呼ばれるほど賑やかになる以前(明治末期 大正期) 芸術家たちの会合があちこちで開かれていた時期がありました。山王の望翠楼ホテルでも、近くに住む芸術家たちが集まって 『大森丘の会』を開いて たことがあります。ただし会合といっても型苦しくなく、馬込の住人である日夏耿之介、小林古径、川端龍子、真野紀太郎、長谷川潔ほか知り合い芸術家同士の『だべり会」でした。
同じ頃、山王大貫横町に住む版画家の長谷川潔宅にも文士や芸術家がたびたび寄り合っています。こちらは同人誌『仮面』のメンバーが中心で、堀口大学や後に馬込へやって来る北原白秋 、室生犀星らの姿もありました この頃のことを日夏耿之介はーわれら大森グルッペは、 文士画家の集合で・・・…(中略 )・・・この時代ほど各芸術の相互影響を身をもって試した議事は、前になく後にもなかったと思うーと述べ、大正末期からの馬込文士村とはひと味違った雰囲気があったことをうかがわせています。
※表面がはがれていて読めない部分がある。
『日夏 耿之介(ひなつ こうのすけ、1890年〈明治23年〉2月22日 - 1971年〈昭和46年〉6月13日)は、日本の詩人・英文学者。本名樋口 國登(ひぐち くにと)(通称は「圀登」の字体を愛用)[2]。号は夏黄眠、黄眠道人、黄眠堂主人、聴雪盧主人、石上好古、溝五位など30数種類存在する。広範な学識と多岐にわたる文学活動で「学匠詩人」と称される。
詩人としては自らゴスィック・ローマン詩體と称す高踏的で荘重幽玄な詩風であり、その神秘主義的な象徴詩は他に類をみない個性を放っている。また、訳詩や文学論考、随筆などの幅広い著作があり、明治大正期の文学論でも知られる。 』
日夏耿之介 - Wikipedia
◆尾﨑士郎記念館
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2025/05/18 尾﨑士郎記念館 - ovanの社会科見学
◆蘇峰公園・山王草堂記念館
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2025/05/18 蘇峰公園・山王草堂記念館 - ovanの社会科見学
万福寺あたりを散歩した
山本周五郎 (1503~1967)
小説家
山梨県生。 編集記者時代の須磨寺附近】が出世作。 少年少女向けの読物から、 娯楽小説にも手を広げ、【樅の木は残った】【赤ひげ診療譚 青べか物語】など多くの作品を残す。 また、直木賞・毎日出版文化賞・文芸春秋読者賞などいずれも辞退している。
馬込文士たちからは、「曲軒」ととあだ名されとかく天の邪鬼に見られがちの山本周五郎でしたが、几帳面で義理堅い人でもありました。そんな周五郎の朝は、ベーコンエッグ付き朝食で始まります。食後の後はいつもの散歩。いつものコースを廻って谷中、池上通りと抜け、「古本屋巡り」をしながら家に戻ってくるのでした。不思議に古本は良く買ったが借金はしなかった、ところにも周五郎の生真面目な一面を見る事ができます。
『山本 周五郎(やまもと しゅうごろう、1903年(明治36年)6月22日 - 1967年(昭和42年)2月14日)は、日本の小説家[2]。本名:清水 三十六(しみず さとむ)。質店の徒弟、雑誌記者などを経て文壇に登場。庶民の立場から武士の苦衷や市井人の哀感を描いた時代小説、歴史小説を書いた。 』
山本周五郎 - Wikipedia