環七沿い北西へ。
山本有三・片山広子旧居跡からは環七からやや東側を北西へ進む。
神楽殿
◆根ヶ原児童遊園
上記、第六天根ヶ原神社境内の一部が公園になっている。
◆新井宿歩道橋
下は環七。
山本有三
山本有三(1887~1974)
山本有三は三鷹の家を進駐軍に接収されたため、昭和二十一年の暮れにこの家に越してきました。翌年四月参議院議員となり、任期の六年間に、国立国語研究所設置法.・国民の祝日に関する法律・年齢のとなえ方に関する法律.・文化財保護法等の成立に力を尽くし、また二十四年には小説「無事の人」を発表しました。この家から湯河原へ転居したのは任期終了後二十八年十二月のことです。
劇作家として出発した有三は、耳で聞いてわかる言葉を心がけ、表記の方法も口語体の漢字まじり文(『難しい漢字を使わず、振り仮名がなくても誰でもが読める文章』)を提唱し、自ら実践していました。また青少年の育成にも力をそそぎ、『日本小国民文庫』や子ども雑誌『銀河』ほか小中学校の国語教科書の編集にもたずさわりました。戦後更に『国民の国語運動連盟』を結成し、当用漢字・現代かなづかいの普及や口語体の日本国憲法作成のきっかけをつくるなど、幅広い活動をした真の文化人でした。
片山広子
片山広子(1878~1967)
片山広子は外交官の長女として上流家庭に育ち、西洋的な気品と教養を持ち合わせた女性でした。
処女歌集『悲翠(ひすい)』を出したのちは、松村みね子の名でアイルランド文学の翻訳に打ち込み、また昭和三十一年には随筆集『燈火節」でエッセイスト賞を受けます。しかし広子にとって文学活動はあくまで趣味であり、むしろ上流家庭の夫人がお金を嫁ぐということに抵抗を感じてか、原稿料はいっさい受け取りませんでした。
大森にやってきたのは明治四十三年のことで、小林古径や川端龍子が参加していた『大森丘の会』にも加わっています。
広子の住む大きな邸宅には村岡花子や佐多稲子など文学を志す人たちが訪れていましたが、彼女にあこがれを抱いていた芥川龍之介や室生犀星、堀辰雄らの姿もあったようです。
くちなし夫人
片山広子をくちなし夫人と呼びだしたのは、芥川龍之介と室生犀星である。
「とういふ場合でも他人の蔭ロをいはない典雅な夫人だった。年よりずっと若くてとこかフランチェスカ。ペルチ二といふイタリイの古い女優の顔に似てゐた」
と映画通の犀星は、芥川をモデルにした作品「青い猿」の中で書いている。
◆山王三丁目遺跡
google mapだとこの崖のあたり。
現地には説明板もなく、WEBで探すと下記のページにたどり着いた。
大田区山王遺跡 - 全国遺跡報告総覧
続く。