2025/04/29 貫井神社・貫井遺跡


『元は貫井弁財天と称し、武蔵野段丘のふもとの景勝の地に鎮座し、貫井部落の氏神として崇拝されていた。明治維新の際神仏分離令により明治8年(1875年)厳島神社と改称、更に貫井村字一ノ久保鎮座の貫井神社を合祀、以後村社貫井神社と改称。境内には、東京の湧水57選に選ばれた清水の神池、老松が存在する。また、縄文土器を中心に貫井遺跡が付近各所より、多数出土することから、集落が早い時期より存在しており、比較的古い創建と考えられている。』
貫井神社 - Wikipedia






 創立は天正十八年(1590)この湧水の出る景勝の当地に、水の神である水神様を貫井弁財天と称え奉祀、氏神様として崇敬せろを明治維新の際神仏分離令により明治八年(一八七五)厳島神社と改称、更に貫井村字一久保鎮座の貫井神社を合祀、以後村社貫井神社を称す。御本殿は今より約二八〇年前の宝永六年(1709)改築総建築に立派な彫刻を隠し文化財として重きをなすも昭和六十年(一1985)七月十六日早朝、はからずも火災にて本殿競失せり 里人一同恐權、早速復興し神慮と安ん奉らんと一心に励み昭和六十一年(1986)十二月二十三日総松材流造の広麗なる御本殿をも復元併せて渡廊・玉垣・神橋をも復元竣功す。これを記念し茲に刻む





google mapには境内に「貫井遺跡」のマークもある。
旧石器時代の生活痕跡と、縄文時代の環状集落からなる遺跡である。これまで24次にわたる発掘調査が行なわれ、縄文時代中期前半~末葉の竪穴建物跡が55棟検出された。
武蔵野台地の南端、国分寺崖線に面して立地し、湧水が形成したノッチ状地形を囲む∩字状の範囲に広がる。ノッチ部分には現在では貫井神社が立地、本殿の西側には現在でも湧水があり、境内には池が形成されている。遺跡の本体は神社東側の道路を上った、台地上の標高70~71mの範囲に立地する。
近隣には、国分寺崖線に面して西側に国分寺市東京経済大学構内遺跡、東側に小金井市はけうえ遺跡、南側の斜面下位の立川面には荒牧遺跡があり、野川流域遺跡群を構成する。 』
貫井遺跡 - Wikipedia








◆干支の「它」様











庚申塔










◆石橋供養塔










◆池










◆橋











貫井神社の湧水(東京の名湧水57選)












◆石塔










◆階段

こちらの上にいくつか境内社などがあった。











◆馬頭供養塔










不動明王










◆石仏










愛宕神社










八雲神社










◆鳥居










◆鳥居/階段










◆神楽殿

鳥居より外にあった。










貫井分水 玉川上水

境外にあった。
google mapのカークだとこの写真の所あたり。
説明版など見当たらなかった。











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