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https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2025/04/29/203000
◆東経大通り
商店街♪
◆殿ヶ谷戸立体
こちらをくぐって線路の反対(北)側へ。
武蔵野段丘の南端にあたる比高差約5~16mの国分寺崖線やそれに入り込む谷筋には、 湧水地点が点在し、 その湧水が集まって野川を形成しています。 狩猟と採集を主な生業とした縄文時代の人々は、 豊富な湧水と豊かな植生林が広がる日当たりの良い台地上を求めて、 野川流域に集まり生活を営みました。 本遺跡もその一つで、東の本多谷、西の殿ヶ谷戸谷に挟まれ、南東に張り出した台地の先端に位置する縄文時代の集落遺跡です。 約4500年前の縄文時代中期を中心とした住居跡が20軒以上確認されています。
本遺跡の発見は日本考古学の黎明期にあたり、 市内における縄文時代遺跡研究のさきがけとなりました。 明治22年(1889) に甲武鉄道(現JR中央線) が開通した後、 明治26年に井上喜久治と帝国大学 (現東京大学)の鳥居龍蔵(とり いりゅうぞう)によって遺跡の存在が確認されます。 翌年、 鳥居は同大学の大野延太郎(おおの のぶたろう) (雲外(うんがい)) と調査を行い、国分寺駅東側で府中新道路開通工事のためあらわになった切通し断面から、 縄文土器や石器を発見しました。
「遺物包含層」・「遺物散列地」 命名の地
大野らは調査結果を「武蔵国北多摩郡国分寺村石器時代遺跡」 (「東京人類学会雑誌』 102・106・107・111号、1894~95年)として大野のスケッチを入れて発表しました。 本遺跡における遺物の出土状況に着目し、遺物が当時の地盤上から動かずにある場所を「遺物包含層」 後世の開墾等により地上に遺物が散布している場所を「遺物散列地」 と区別して定義づけました。
「遺物包含層」 は、今日でも考古学の学術用語として広く定着し、 本遺跡は日本の考古学史にとって重要な遺跡と言えます。
◆大学通り
商店街♪
◆国分寺駅南口前・彫刻・碑
かがやき像
武蔵国分寺史跡図
国分寺(僧寺・金光明四天王護国之寺、尼寺・法華滅罪之寺)は、天平十三年(741年)聖武天皇の詔により鎮護国家を祈願して国ごとに創建されました。
武蔵国分寺史跡は市内西元町にあり、昭和三十一年以来の発掘調査によって諸国国分寺中有数の規模であることがわかりました。僧寺の金堂は諸国国分寺中最大で有ると共に、東大寺・興福寺を除く奈良の寺院の金堂よりも大きな規模でした。
金堂をはじめ講堂・七重塔・鐘楼・東僧坊・中門・塀・北方建物溝・付属建物・竪穴住居が調査されています。
国分尼寺史跡は僧寺の南西約四百メートルほど離れています。
武蔵国の文化興隆の中心であった国分寺ですが、今は遺跡に基壇や礎石を残し七堂伽藍の建ち並ぶ当時を想い偲ぶことができます。
尚、この史跡図は「国分寺の名にふさわしい文化都市を築く会」が設立した『ふるさと基金』に市民の皆様のご協力と国分寺市教育委員会のご指導を動き企画・製作致しました。
小柳九一郎翁頌徳碑
『小柳 九一郎(こやなぎ くいちろう、1859年6月15日(安政6年5月15日)- 1929年2月22日)は、明治から昭和初期にかけての東京府において、当時の国分寺村(後の国分寺市)村長、東京府会議員などを歴任した地方政治家。
1889年4月に、甲武鉄道(後の中央本線の一部)が新宿駅と立川駅の間に開通した際に、国分寺駅が開業したが、これは小柳が、所有していた7000坪(およそ2.3ha)の土地を換地に提供して現在の国分寺駅の位置に2000坪(およそ66a)ほどの土地を確保し、これを駅用地として寄付し、さらに他の地主からの寄付も合わせて実現したものであった。 』
小柳九一郎 - Wikipedia
文字が読み取れなかった。
どんなことが書いてあるのかご存じの方は教えてくださると有難いです。
ぺこ <(_ _)>
◆多喜窪通り
商店街♪
◆国分寺駅