2025/05/18 八景天祖神社


『創建年代は、言い伝えによると、江戸時代に地元の名士であった皆川家が神社創建のため、土地を提供したと言われている。元々は「神明社」という名称であり、旧別当寺は、近くの円能寺である。
かつて「鎧掛松」という松があったと言い伝えられている。源義家の軍勢が後三年の役出征のために進軍中、当社で戦勝を祈願した。その際、松の枝に鎧をかけた故事からきている。歌川広重の「八景坂鎧掛松」という題材になる程の有名な松であったが、明治時代に枯れてしまい、現在は存在しない[2]。現在、鎧掛松があったとされる最も有力な地点は大森八景坂地区の大森駅北口周辺と言われている。
かつて大森八景園とは崖地を介して隣接しており、今もなおその名残が残っている。
八景児童遊園は1936年(昭和36年)八景天祖神社宮司の意向により、境内地の一部(436.96㎡)を東京都大田区へ毎年の更新という形で無償提供されているものである。
平成3年6月、公衆用道路整備のため、八景天祖神社登記名義人の宮司が境内地の一部を東京都大田区に寄付する。
令和7年1月、八景天祖神社階段が「景観資源【坂道】[3]」に大田区より追加指定される。』

以前訪れたことがある。
2020/04/23 山王散歩 01 大森駅/八景天祖神社/八景坂/八景児童遊園/庚申塚/山王三番街/闇坂 - ovanの社会科見学





◆松



 義家は父の後を吐き、永保3年(1083) 4歳の時、陸奥鎮守府将軍となって陸奥へ赴任した「後3年の後」が起きるその戦いの発端は清原兄弟の権力争いで義家はそれに巻き込まれた。この戦いは追討の宣旨を得られなかったので恩賞も得られず将軍職も解任された。
義家は自腹を切って部下達の功績に報いた後の承徳2年(1098)その功績が認められ、正四位下に叙せられ昇殿を許された。
この松は安東広重の絵にも見え、三代目と伝えられている。
大正6年10月の台風で倒れたので切り株だけになった。」






◆神楽殿






◆正一威伏見稲荷神社



正一位伏見稲荷大明神
 江戸時代の中頃より、稲荷信仰が盛んになりました。現在でも日本で一番多い神社です。京都の伏見稲荷大社の創建は、渡来系の秦氏がほとんど湿地であった土地に運河を造り、水を抜き人が住める様にしたので、天皇が奈良より都を移し京都と名付けました。
その功績により土地を賜り神社を建てました。この稲荷社の創建は江戸の末期ですが、昭和45年頃の台風で倒壊したので新築しました。
前建の狐像一対は、地元の市島昌明氏が寄贈したものです


石段途中にあった稲荷神社


鳥居






◆鳥居






馬込文士村レリーフ(天祖神社階段脇)






◆石段







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