2017/10/01 追浜散歩 01 「貝山緑地」 予科練誕生の地/海軍甲種飛行予科練修正鎮魂の碑/海軍航空発祥之地記念碑/旧海軍砲台跡

珍しい1日休み。
天気も良かったのでお出かけ。
追浜で月に一度だけ「第三海堡」という遺物を公開しているので、
そちらがメイン。
あとはブラブラお散歩。


最初に貝山緑地という公園。



入り口






 地下壕とは、第二次世界大戦中に防空を目的に兵器などの格納や避難用あるいは軍需工場として構築された地下施設です。横須賀鎮守府や横須賀海軍工廠をはじめ軍の施設が置かれた横須賀市内には、市北部を中心として急峻な丘陸の山裾や山腹にトンネル式の地下壕が数多く掘られました。
 追浜〜夏島・浦郷にかけての一帯は、横須賀海軍航空隊や海軍航空技術廠が設立され、追浜飛行場もあったことから、海軍航空の一大拠点でした。そのため、地下壕の中で航空機の実験や制作も行われ、夏島と横浜市の野島には戦闘機の格納を目的とした大規模な地下壕(掩体壕)が彫られました。
 この貝山には6か所以上の複数の地下壕が確認されており、これらを総称して「貝山地下壕」と呼んでいます。大部分が素掘りで、トンネル状の通路が複雑に分岐する迷路のような構造です。通路のほかに大小の部屋や山頂の気象観測所へつながる階段があり、かまどなどの施設も付属しています。通路の規模は幅2〜6m、高さ2〜10mで、総延長は3km以上に及ぶと考えられます。
 戦後60年以上を経過した現在でも市内にはまだ数多くの地下壕が残されています。こうした地下壕は危険性が高いことから埋め戻しなどの対策事業が講じられる一方で、近年、軍事に関する遺跡としての評価も高まっています。用途や構造など未解明なところもありますが、貝山地下壕は市内に残る代表的な地下壕の一つです。



一部読みづらい文字は想像で付け足した。




この地下壕入ってみたいと思ったけど、公園のMAPにも書いていないね・・・・。








予科練誕生の地




予科練とは海軍飛行予科練習生の略称にして海軍少年航空兵とも別称す。
昭和五年六月一日第一期生入隊以来昭和十四年二月第十期霞ケ浦に移るまで、全国より選ばれたる少年此の地に集い学び此の地を巣立ちて日夜猛訓練の中に技術を磨き、やがて日支事変勃発するや中国の空に
第二次世界大戦においては南海の空にと唯々国のため同胞のためににと信じて各地に勇戦敢斗嚇々たる武勲を残してその大多数が大空に散華す。
我々不思議に命永らえたる生存者一同今は亡き同窓の英霊を偲びて、思い出の此の地追浜神社跡に建碑す。
即ち予科練誕生之碑也





光る海 明るい太陽の下 大空をこよなく愛し 国を想うひとすじの 少年たちが溌剌としてここに溢れていた。  昭和五年六月一日 横須賀海軍航空隊内の一隅に 海軍少年航空兵の 教育機関として 横須賀海軍航空隊予科練習部 が誕生し やがて 予科練 と愛称されるようになった。
 志願者の年齢は十五歳から十七歳 修業年限は三ヶ年 俊秀なる 大空の有志は英才の早期教育に俟つとの観点に立って この制度は創設され 全国五千九百余名の志願者から厳選された七十九名が第一期生として ここに 入隊した 土浦 三重 鹿児島など のちには19を数えるに至った予科 連航空隊の萌芽である。  時局の進展につれて 海に臨み山を負うこの地は狭小となって 昭和十四年三月 霞ヶ浦湖畔に移り 翌年独立して 土浦海軍航空隊となった  予科練の歴史十五年三ヶ月のうち 実に八年九ヵ月は ここ追浜の地で 教育活動が行われたのである。
そこで目指したものは鉄石の訓練をものとも せず 乾いた砂が水を吸いこむようにあらゆるものを純粋に受け入れて 自らを育てていった。  予感連を巣立った若人たちは 飛行練習生教程 実用機練成教育と 研鑚を重ねてたくましい若鷲と育ち 太平洋戦争に於ては 名実共に我が 航空戦力の中核となり 水陸の基地から 航空母艦から 戦艦 巡洋艦 或は潜水艦から飛び立ち 相携えて無敵の空威を発揮したが 戦局利 あらず 敵の我が本土に迫るや特別攻撃隊員となり 名をも命をも惜しまず 一機一艦必殺の体当たりを決行し 何のためらいもなく無限の未来を 秘めた蕾の花の生涯を祖国防衛の為に捧げてくれたのである  顧みれば 少年たちは戦いを求めてこの地に集まったのではなく 制空 護国の一途の念いからであった 予科練誕生以来既に五十一星霜 若人 たちの至純の赤心が 祖国の安寧と世界平和の礎となることを祈念して 旧学び舎の丘の上にこの碑を建つ




海軍飛行予科練修正制度(予科練)いついて


海軍飛行練習生は「予科練」として知られ、昭和5年に当時の横須賀海軍航空隊に第一期生が入隊しました。その後、昭和12年に甲種飛行予科練習生(甲飛)制度が創設され、従来の制度は乙種予科練習生(乙飛)制度と改められました。


(横須賀海軍航空隊にかかる沿革)


昭和4年12月29日  予科練集制度創設
昭和5年6月1日   横須賀海軍航空隊に予科練習部を開設(第一期)
昭和11年12月4日  予科練習生を飛行予科練習生に改称
昭和12年5月    甲種飛行予科練習生制度を創設
         従前の制度を乙種飛行予科練習生制度と改称
9月1日  甲種予科練習生入隊(甲1期)
昭和14年3月1日  霞ヶ浦海軍航空隊へ移設




海軍甲種飛行予科練修正鎮魂の碑

昭和十二年国際関係が悪化し国防が最重要視される頃、海軍では航空機の発達と共に、今までの大艦巨砲主義から航空機へと思考を変え、航空機搭乗員要請を急務とした。高度な飛行技術と強靭な肉体を求められる搭乗員は、心身共に優秀な青少年を求めた。ここに、甲飛即ち海軍甲種飛行予科練習生制度が誕生した。昭和十二年九月一日全国の中等学校から厳選された二百五十名が第一期性として横須賀海軍航空隊に入隊した。以後太平洋戦争の激化に伴い最終の第16期生まで十三万九千七百二十名もの青少年たちが、国を護るために各地の航空隊の門をくぐった。しかし、戦局の悪化により大空の果て、海原のそこに散った甲飛の御霊は、実に六千七百七十八柱にのぼる。その中の一人は次の歌を残して散華した。

血潮も手茜と染むる悔ゆるなし
雲を墓標の空の御楯は

私たちは国家危急の折、救国の大義に殉じられた多くの同窓の御霊の冥福を祈念するとともに、甲飛の歴史の伝承と我が国の永遠の平和を念願して、ここ甲飛発祥の地横須賀に、この碑を建立する。



海軍航空発祥之地 記念碑

右に夏島 左に野島を望見し、海に向かって延びていた滑走路をほうふつさせるこの台地は、もと横須賀海軍航空隊の一部であり、ここには同隊の殉職者を祭った追浜神社や気象観測所があった。
 1912年、同隊において実施された‘日本海軍の初飛行’を記念して, 当初の碑は 1937年、この台地の下、最古の飛行機格納庫跡に建てられたが、戦後破壊された。
 この碑は1956年、海空会によって再建されたものであるが、周辺の敷地一帯が国より株式会社ナブコに払い下げられたため、工場内に保存されることになった。
 戦後50年目の1995年、この碑は関係者により、公共の場所である現在地に移設復元された。


ナブコさん!?
には、ちょっぴりお世話になってるなあ・・・・。






明治四十五年始メテ海軍航空術研究委員會組織セラレ十月地ヲ追浜ニトシ東西二百米南北六百米ノ地積ヲ劃シ其の一隅ニ格納庫壱棟ヲ建設ス即チ此ノ地ナリ
十一月二日海軍大尉河野三吉カーチス式水上機ヲ操縦シテ飛行ス同六日海軍大尉金子養三モ亦ファルマン式水上機ヲ操縦シテ飛行ス
是實ニ帝國海軍飛行ノ嚆矢ナリ
今茲ニ碑ヲ當時ノ格納庫ノ跡ニ建テ以テ記念ト爲スト言フ



展望台










眺めは良かった。




旧海軍砲台跡




いくつかコンクリートの構造物を確認できたが、どれがそうななのかわからなかった。
こちらは説明が何もなさすぎる・・・・。