2019/03/17 方南町散歩 05 釜寺東遺跡/身代地蔵尊/東運寺/方南・大山神社/方南銀座/方南八幡陸橋

まだまだ北上する。
もう丸の内線方南町駅の近く。




◆釜寺東遺跡(方南二丁目公園内)





 本遺跡は、東運寺(通称釜寺)周辺を中心にして広がる縄文時代後期(約二千五百年前)、古墳時代後期(約千四百年前)の複合遺跡です。昭和五十四年の発掘調査で、台地上に六軒、台地下に三軒の住居址が発見されました。
 遺跡が発見された一帯は、善福寺川神田川が合流する西側に形成された約十万平方メートルにもおよぶ舌状台地上にあります。
 古くから「峯台地」と呼ばれたこの付近には多くの遺跡があり、先土器時代(約二万五千年前)から人々が生活していたことが知られています。
 釜寺東遺跡からは、住居址のほかに土師器と呼ばれる古墳時代の土器(甕・坏・椀・こしき)、首かざりに使われた玉、縄文時代後期(約二千ご百年前)の祭り事に使われた石棒が発見されています。




◆身代地蔵尊








◆東運寺




 当寺は、阿弥陀如来像を本尊とする浄土宗の寺院で、「釜寺」という通称で親しまれています。
 元禄十四(1701)年頃に当寺の住職であった祐梵上人筆の由緒書によると、天正元(1573)年、備前岡山県)の僧一安上人が当地に来て、安寿と厨子王の守り本尊「身代り地蔵尊」を奉じ、これに帰依した方南の大地主鈴木伊兵衛が屋敷を寄進、念仏堂としたのが当寺の開創と伝わります。大正十一(1922)年、下谷入谷町にあった東運寺(慶安四〔1651〕年、茂山上人開山)と合併し、念仏山東運寺と山号と寺号を改めました。
 「釜寺」という通称の由来となった「身代り地蔵尊」には、山椒太夫(さんしょうだゆう)に釜ゆでにされそうになった厨子王を、お坊さんの姿になって助けたという言い伝えがあり、それにちなんで当寺本堂の屋根に釜を置いたといわれています。現在の大釜は、昭和二十(1945)年の戦災で本堂焼失後、当地の檀徒が寄進したもので、米一俵(60キログラム)を炊くことができるといいます。
 当寺には、元禄二(1689)年の刻銘のある半鐘や江戸初・中期の庚申塔や石仏などが保存されています。また、「鉦冠薬師」と呼ばれる木造仏も安置されており、本像は寺伝によると徳川第十三代将軍家定公に縁があるとされています。山門は、一関藩主であった田村右京太夫江戸屋敷脇門を移築したもので、赤穂藩主であった浅野内匠頭切腹の折に通ったと伝わります。そのほか、中国山東省の孔子家より贈られた銘木「楷樹(かいのき)」が数株植えてあるのも珍しいです。





文化財





元禄2年(1689)銘半鐘
 当半鐘は口径33cm、高さ58cmで良く整った形をしています。龍頭は双頭を背合わせにし、その上に蓮華座をもつ宝珠を置き、笠形は饅頭形で甲盛りが高く、池の間には「元禄二年」(1689)、「中興開山定蓮社正誉幡可和尚」の時に「方南村」の当寺に寄進された旨が鮮明に刻されています。
 鋳造者は湯島霊雲寺の梵鐘で有名な江戸の鋳物師田中丹波守重行です。本鐘は区内に所在する梵鐘のなかで最も古い年記を持つもので、銘文により東雲寺の古歴を示す貴重な資料です。









山門





山門縁起
この山門は元禄の頃、芝田村屋敷の脇門にして、浅野内匠頭是を通ると伝う。
明治末葉、三井総本家これを今井町に移し、元織田有楽斎如庵の茶室(国宝)の表門となせるも、用うること稀なりしが為め「開けずの門」と称すと。
戦中解体保管しあるを、適々昭和28年同家御当主元男爵三井高公(襲名八郎右衛門)殿より当山中興精誉桂巌上人に寄進せらる。
因に当山門は、屋根瓦は、当初田村公の時、明治末三井家の時、当山に再建の時の三種あり、釘は全く用いず組合せ式、門自体約五分内側へ傾けてある由、門扉開閉確実の為めとは、古昔の工匠修錬実績の智慧に無限の敬意を表せんものを。
茲に 昭和30年7月7日落慶法会を修す。
山門縁起
この山門は元禄の頃、芝田村屋敷の脇門にして、浅野内匠頭是を通ると伝う。
明治末葉、三井総本家これを今井町に移し、元織田有楽斎如庵の茶室(国宝)の表門となせるも、用うること稀なりしが為め「開けずの門」と称すと。
戦中解体保管しあるを、適々昭和28年同家御当主元男爵三井高公(襲名八郎右衛門)殿より当山中興精誉桂巌上人に寄進せらる。
因に当山門は、屋根瓦は、当初田村公の時、明治末三井家の時、当山に再建の時の三種あり、釘は全く用いず組合せ式、門自体約五分内側へ傾けてある由、門扉開閉確実の為めとは、古昔の工匠修錬実績の智慧に無限の敬意を表せんものを。
茲に 昭和30年7月7日落慶法会を修す。





◆方南・大山神社









◆方南銀座












◆方南八幡陸橋







続く。