2021/03/04 赤羽西散歩 01 赤羽駅/赤羽西口本通り/静勝寺/中坂/稲荷社/稲付の餅搗唱の碑

24時間+残業1時間勤務アケで、JR赤羽駅から同じく十条駅まで散歩。



赤羽駅から旧岩槻街道を南下。



赤羽駅

スタートのJR赤羽駅












赤羽西口本通り

商店街♪













◆静勝寺

2/23に訪れているので今回は外からお参り。
2021/02/23 赤羽散歩 06 亀ケ池弁財天/静勝寺/静勝寺の坂/中坂/三日月坂/弁天坂 - ovanの社会科見学











◆中坂

こちらも2/23に訪れているところ。
2021/02/23 赤羽散歩 06 亀ケ池弁財天/静勝寺/静勝寺の坂/中坂/三日月坂/弁天坂 - ovanの社会科見学











◆稲荷社

人の家の敷地っぽいので、遠くからお参り。











◆稲付の餅搗唱の碑

奥に見えるのが次の日記「普門院」



 江戸時代、ここは稲付村と称されていましたが、この先右側の社地でうたわれる餅搗唱は、住民が昔から鮮を揚くときにうたった作業唄で、現在は、毎年二月の初午祭のときに道観山稲荷講の人達によってうたい継がれています。
 餅は正月を祝って鏡餅として神棚にそなえるとともに、これを雑煮にして食べたり、祝い事や保存食に使うためにも搗かれました。稲付の地域では、餅を搗く際に、臼のまわりに何人もの若者が集まり、唄をうたいながら小さい杵(きね)を次々と振りおろして餅を練ったり搗いたりします。餅を練るときにうたったのが稲付千本杵鮮練唄(いねつきせんぼんきねもちねりうた)、餅を揚くときにうたったのが稲付千本杵餅揚唄です。唄は、大正十二年(1923)九月の関東大震災の前後まではズシ(=辻子)と呼ばれる小地域共同体の若衆がモヤイ(=催合)と呼ばれる相互扶助的な慣行によって家々をまわり一晩かけて餅揚の手伝いをするときにうたわれました。しかし米屋が餅の注文を取るようになると餅を搗く機会が次第に失われ、モヤイによる餅揚唄も姿を消していきました。
 昭和四十年前後、赤羽西二丁目町会の役員が稲荷講の役員を兼ねていたのが契機となって、静勝寺の参道下から清水小学校までの街道沿いを氏子地域とする道観山稲荷諜の人々が初午祭に際して餅揚唄を伝承するようになり、今日に至っています。











続く。