2021/05/05 千住仲町散歩 05 一里塚跡/千住高札場跡/旧南足立郡役場跡地/慈眼寺/不動院/千住町役場跡

大踏切通りを西へ向かう。
「大踏切」ってすごい名前の通りだね!



◆一里塚跡

下記の千住高札場跡も含めて4/22に来たところ。
2021/04/22 千住散歩 09 テ●シ●警備/東京芸術センター/問屋場・貫目改所跡/千住川/芭蕉像/千住高札場跡/一里塚跡 - ovanの社会科見学









◆千住高札場跡










◆旧南足立郡役場跡地

現地には説明板など何もなかった。



google mapマークの場所は上の写真の所辺り。
東京芸術センターなどが入るビルだった。

南足立郡(みなみあだちぐん)は、東京府にあった郡。郡名はそれまでの足立郡を埼玉県に属する地域と東京府に属する地域に分けた際、北にあたる埼玉県側を北足立郡、南にあたる東京府側を南足立郡としたことによる。 』
郡役所を千住一丁目(千住宿北組のうち)に設置。
南足立郡 - Wikipedia


『郡役所を千住一丁目(千住宿北組のうち)に設置。』
とあったので、おそらくあっている?と思われる。
ちなみに上の写真のビルの住所は「千住一丁目四の一」となっている。









◆慈眼寺



 当寺は、新義真言宗で、山号を千龍山、院号を妙智院という。寺伝に上机ば、正和三年(1314)二月、行覚上人(ぎょうかくしょうにん)が関東巡錫(じゅんしゃく)の折に創建、三代将軍 德川家光の時、伝弘法大師作 聖観世音喜薩像を安置し本尊とし、江户城北方の祈願所とLして葵の紋の使用を許されたとされる。
 幕末に編纂され、千住宿の故事を記録した『旧孝録(きゅうこうろく)』によれば、弘化四年 (1847)四月、東叡山寛永寺(とうえいざんかんえいじ)の山主(さんしゅ)(上野の宮様)慈性入道法親王(じしょうにゅうどうほうしんのう)が日光社参の際、宿場本陣に支障があり、当寺が本陣を勤めた。以来,六度寬永寺山主王の休息所となった。
 また文人墨客(ぶんじんぼっかく)との付き合いが深く、特に江戸時代後期の画家建部巢兆(たけべそうちょう)との親交から、「巣兆寺」と呼ばれた。
 境内にある板碑(貞治六年銘)、地藏菩薩庚申塔庚申塔 (寛文七年銘)が足立区文化財に登婞されている。


千住町消防組



 昭和七年十月一日、足立区の誕生とともにこの地にあった千住町消防組屯所は、足立消防署(昭和二十二年八月一日千住消防署と改称)となり近代消防が発足した。
 消防組織の歴史遡れば、享保四年(1719) との江戸町奉行大岡越前守忠相の肝煎りで江戸町火消が生まれ、自治的な「いろは四十八組」がが鳶の者によって組織されたのを始めとする。
 千住も江戸四宿の一つとして栄え、東北路の要衝であったところから、文政十二年(1829)に戒坊更番所(かいこうぼうばんしょ)を建て町民が管理したという。安政年間には南北千住消防組ができ、明治以降は警視庁の指揮下にあったが、明治二十八年からは自治体の千住町消防組として活躍した。
 ここにある南北消防組記念碑は、大正十二年四月に建てられたもので、創始以来の殉職物故者の氏名を記し慰霊顕彰している。


豊川稲荷


弁天堂


薬師堂


鳥獣塚


山門









不動院



 当寺の本尊は不動明王である。元弘二年(1332)秀天上人(しゅうてんしょうにん)の開山という。
 もと吉祥院の末寺で、白幡八幡神社別当と伝えられている。
 墓域に、正面「南無阿弥陀仏」、右側面に「藝州」と大書した大きい供養塔がある。これは明治維新の際、千住口から戊辰戦争に従軍した芸州藩の軍夫、従属者のうち、千住近在から参加した者の戦死者を永代供養したものである。
 また、川魚料理人の人たちが、魚類の冥福を祈るために建立した包丁塚の碑がある。
 本寺は、千住宿問屋場に近いところから宿場関係の人々の墓石が多い。明治九年(1876)六月二日、明治天皇東北巡幸のとき御急休息所になった中田屋の墓、千住宿旅籠屋一同が万延元年(1860)に建てた遊女の無縁塔などがある。


豊川稲荷


地蔵堂


山門









◆千住町役場跡



『千住町(せんじゅまち)は、1889年(明治22年)5月1日から1932年(昭和7年)10月1日まで存在した東京府南足立郡の町。現在の東京都足立区千住、千住大川町千住寿町千住中居町千住仲町千住河原町千住橋戸町千住緑町千住宮元町、千住龍田町、千住柳町、千住元町、千住桜木、千住関屋町、千住東、千住旭町千住曙町、足立一・四丁目、中央本町二・三丁目、梅島一丁目に相当する。 』
千住町 - Wikipedia













続く。