2024/04/26 大日堂・日吉神社


こちらが大日堂。




大日堂境域及び日吉神社境域
 大日堂の創建は、寺伝などによると天暦六年(952)と伝えられている。 の後、戦国期、滝山城の築城に際し城の鬼門除けとして現在地に移され、天正年間(1573~1591)には滝山城北条氏照重臣石川土佐守が娘の眼病を祈願し平癒により堂宇を再建。この時に「大日八坊」といわれた一山八ヶ寺が建立されたと言う。
 天正一九年(1591)には徳川氏より朱印地一〇石を下賜され、享保一七年(1732)には大日堂の位置を石段上の現在地に移し建物を再興している。
 一方、日吉神社の創建は不明であるが、天正年間の大日堂再興の折にその守護社として建立されたと言われ、寛保元年(1741)に「山王大権現」の称号を許されている。江戸時代は大日堂の管轄下にあったが、明治以神仏分離により独立し、社号も日吉神社と改めてい当該地は古刹として著名な大日堂と天台宗の守護社である日吉神社によって形成された境域で、歴史的建造物を中心に旧態をよく留め、典型的な天台宗一規一画の寺域を構成する都内でも数少ない場所の一つである。




拝島山 大日堂
◎寺伝によれば、天歴六年(952) 玉川花井の島より大日如来の尊像が出現し、村人が拝んだところから、拝島の地名が付いたという。その後、戦国期、滝山城築城に際し、城の鬼門除けとされ、天正年間(1573~92)には滝山城北条氏照重臣石川土佐守が娘の眼病平癒を祈願し、治癒したことから堂宇を再興し、一山八ヶ寺(大日八坊)を建立したと伝えられている。天正十九年(1591)には徳川氏から朱印地十石を下賜された。現在の建物は、享保十七年(1732)の再建である。また平成十六年(2004)大日堂・仁王門・薬師堂の
平成の大修理を行い江戸期の形状に整備された。

◎都指定文化財
仁王門内 金剛力士立像 (鎌倉時代作)
大日堂内 大日如来坐像(平安時代作)
釈迦如来坐像(平安時代作)
阿弥陀如来坐像(江戸時代作)

◎都指定天然記念物
拝島のフジ(樹齢八〇〇年)




寺記によると天暦6年(952年)の創建といわれています。 その後、天正元年(1573年)、滝山城北条氏照の家臣石川土佐守の一族が再建し、同時に大日八坊といわれる八ヶ寺を建立したことが 『新編武蔵風土記稿』 に記されています。 当時の大日堂は現在の石段下にあったもので、 享保17年(1732年)に現在地に移転再建されました。
お堂は間口14.7m、 奥行 13.7mあります。
本尊は木造大日如来坐像で、釈迦・阿弥陀如来像とともに、都の有形文化財 (彫刻)に指定されています。








◆鐘楼








◆薬師堂








明王院








六地蔵








◆おねいの井戸




この井戸は拝島町にある有名な井戸の一つで、 別名 「お鉢の井戸」 と呼ばれています。
室町時代の末期 (400年余り前)、 滝山城北条氏照の家臣であった石川土佐守が大日堂に娘 「おねい」 の眼病の治ることを祈り、さらにこの井戸の水で眼を洗ったところ、よくなったといい伝えられています。









◆仁王門



仁王門の創建年代は明らかではありませんが、門の掲額 「密厳浄土寺」 の書は由緒あるものである。 これを蜀山人は、 『調布日記』 (19世紀初頭)の中で 「宮方の書にやいずれも高貴なる人の書なるべし」 と記している。
仁王門は間口9メートル、 奥行 6.3メートルあり、 門内には都指定有形文化財の金剛力主像が安置されている。








◆慰霊碑








◆大日堂脇の湧水








日吉神社



日吉神社由緒
 
■御祭神
大山昨命(おおやまくいのみこと)
香山戸命(かがやまどのみこと)
羽山戸命(はやまどのみこと)
の御三神で殖産興業、農業振興、除災招福の神様です。
 
■創建
創建年代不詳。隣の大日堂の再建された天正年間(1573〜1592)と言われる。古くは山王社と称す。
 
寛保元年(1741)比叡山日吉大社より勧請、延暦寺から山王大権現を賜ったことを記念して、寛保より明和に至る二十六年間、氏子ひと月一文の醵金により神輿、祭礼具完備し第一回目の祭礼が行われる(1767年9月19日申の日)。
 
明治二年、神仏分離令により社号を日吉神社と改称、現在に至る。
 
■例祭
明和四年(1767)以来毎年九月に行われる。榊祭とも称す。昭和50年東京都無形民俗文化財指定
 
■囃子
祭礼の奉納囃子は、昭和40年昭島市無形民族文化財指定
 
■社殿
嘉永五年(1852)現社殿を再建。本殿の彩色彫刻、拝殿の格子天井花鳥画等は、昭和56年昭島市無形民族文化財指定
 
■境域
大日堂と日吉神社境域が歴史的建造物を中心に旧態を良く留め、典型的な天台宗一規一画の寺域を構成する都内でも数少ない場所として、平成4年東京都史跡指定
 
■改修
東京都の補助事業として平成17年から平成20年にかけて社殿の保存修理が行われる。
 
榊祭り二百五十周年記念として平成28年に大神輿を改修する(東京都及び昭島市の補助事業)



拝島町日吉神社祭礼囃子(はいじまちょうひよしじんじゃさいれいばやし)
日吉神社に伝わる祭礼囃子は、この神社が寛保元年(1741年)、 山王大権現の称号を得たことを記念して、 氏子一同が社殿の修理やみこしを造ることを計画し、 当時の金額で一人一文の積立をはじめました。
明和4年(1767年) になり、この計画が実現したので、 みこしをかついで祭礼を行いました。そのさい、先頭にお囃子を乗せた屋台(山車)があり、これが今に伝えられる祭礼囃子のはじまりです。
現在では、 重松・神田・目黒の三種類のお囃子がそれぞれの町内の人たちによって伝承されています。

日吉神社本殿彫刻並びに拝殿格天井花鳥画(はいでんこうてんじょうかちょうが)七〇面・板壁絵(いたかべえ)二面及び幣殿杉戸絵(へいでんすぎどえ)四面
本社殿は安政2年(1855年)、 当時の拝島村大工伊東紋蔵・臼井久米次郎を棟梁として、再建されたものである。
昭和55年(1980年)に発見された棟札によると、次郎良長が彫り、拝殿格天井 花鳥画および板壁絵、本殿彫刻は同村の彫師矢部建幣殿(へいでん)杉戸絵は、上州(群馬県)舘林藩の絵師坪山洞山(つぼやまとうざん)が描いたものとされる。
いずれも近郷には類をみない傑作として、古くから著名である。








境内社








◆拝島日吉神社祭礼志茂町屋台



この屋台は日吉神社例大祭に奉曳される単層唐破風屋型をもつ一本柱様式の人形屋台で、 明治21年 (1888年)に建造されました。
心柱に蓮台・人形を組み、 後方より綱引き起こす構造は、旧屋台のものを踏襲したものとみられ、古様式を残す貴重な屋台です。
当初は、須佐之男命(すさのおのみこと)の人形をいただいて曳かれていましたが大正5年(1916年)、町内に電線が設置されるにおよび、 これを飾ることができなくなりました。
その後、 人形は大日堂内に保管されていましたが、 平成14年(2002年)5月に復元され、86年ぶりに屋台に建ち上げられました。








◆鳥居








◆鳥居








◆拝島のフジ





 このフジは、推定樹齢約八〇〇年と言われ、都内有数のフジの巨木です。昭和三一年の指定当時には根元の周囲が2.9mあったといわれています。
 伝承によると、室町時代末頃、この地に建っていた明王院の境内に自生していたそうです。しかし、江戸時代初期にその明王院は廃寺となり、フジだけが残り今に至ったと伝えられています。俗に「千歳のフジ」とも呼ばれています。
 フジは、春には紫色の蝶形の花をつけ、美しい様相を呈します。古来より自然暦として農作業や漁期の目安とされ、ホトトギス来て鳴く木でもありました。また、日本では古くから観賞用に栽培されるものはフジ棚として整枝されていました。この「拝島のフジ」も開花時には昭島市域をはじめ、近隣からの花見客で大変賑わいます。








場所はコチラ