2019/05/04 調布の掩体壕巡り 01 白糸台駅/踏切/白糸台中央公園/武蔵野台駅/旧陸軍調布飛行場白糸台掩体壕/掩体壕

24時間勤務アケで、友人と調布飛行場近くにある掩体壕を見学。
4つが現存で3つが見学できる。

このあたりは一度来ている。
2017/02/13 part4 多摩村役場跡/白糸台駅周辺/白糸台掩体壕/多磨霊園 - ovanの社会科見学




白糸台駅

スタートの西武多摩川線白糸台駅









◆踏切

名前が見当たらない・・・。



京王線が上を通っている。
交差する場所に駅をつくったらいいのに・・・・・。





◆白糸台中央公園





武蔵野台駅

こちらで友人と合流。



中にお店ができて綺麗になってた!



◆旧陸軍調布飛行場白糸台掩体壕






調布飛行場
 調布飛行場は、昭和13(1938年)に東京府によって、東京府北多摩郡多磨村府中市)・調布町(調布市)・三鷹村(三鷹市)にまたがる約50万坪の広大な土地に計画され、農地や寺院などの民有地を買収する形で進められました。昭和16(1941年)4月に官民共同の飛行場として設置されましたが、同年8月には陸軍専用の飛行場として使用されることになり、帝都防空の拠点として「飛行第244戦隊」が置かれ、三式戦闘機「飛燕(ひえん)」など多数の戦闘機が配備されました。戦争末期には、鹿児島県の知覧基地への中継点として、特攻隊の訓練も行われました。
 終戦後は進駐軍に接収され、飛行場西側の府中市域には、軍に野菜などを供給するための「調布水耕農場」が建設されました。その後、昭和39(1964年)の東京オリンピック開催に伴い、代々木にあったアメリカ軍居住用施設がこの地に移転し、「関東村」と呼ばれました。関東村は、昭和49年(1974年)12月にアメリカ軍より全面返還され、跡地には大学・病院・福祉施設などが建設されました。
 平成13年(2001年)には、「東京都調布飛行場」として正式開港し、現在は伊豆諸島方面への空の玄関口として小型機が運航されています。


掩体壕
 アメリカ軍による本土空襲の激化に伴い、残り少ない貴重な戦闘機を空襲から守り、隠しておくための格納施設が、全国の軍用飛行場周辺に作られました。この施設のことを一般的に「掩体壕(えんたいごう)」と呼んでいます。コンクリート製の屋根のあるものを「有蓋(ゆうがい)掩体壕」、周囲を土堤で囲ったのみで屋根がなく、上は草や木で覆いをかけたものを「無蓋(むがい)掩体壕」と呼び、区別しています。
 調布飛行場周辺では、昭和19年(1944年)6月から9月にかけて、有蓋約30基・無蓋約30基、あわせて約60基の掩体壕が作られました。建設は陸軍と建設業者が中心となり、地元住民や中学生も作業に動員されました。

有蓋掩体壕は、①饅頭のように土を盛り、よく固める。②その上に紙やムシロ。セメント袋などを敷き、柱や梁の部分は板枠で型をとる。③鉄筋を置いてコンクリートを流し込む。④コンクリートが固まったら、内部の土を掘り出して上にかぶせ、草木などで偽装する。といいう手順で構築されたと考えられます。労力も物資も乏しい戦時下に、粗悪な資材を用いて、きわめて短期間のうちに造られたものである、といえます。また、こうして造られた掩体壕だけでは数が足りず、格納しきれなかった飛行機は、浅間山(せんげんやま)や多磨霊園、下石原八幡神社調布市飛田給(とびたきゅう)方面などの樹木の茂った場所に設けられた「分散秘匿地区(ぶんさんひとくちく)」まで運ばれました。
 かつて全国に1000基以上作られたといわれる掩体壕ですが、その多くは取り壊され、現存しているものも、経年による劣化や開発工事などによって、消滅の危機にあるもが少なくありません。

戦闘機「飛燕(ひえん)」
「飛燕」は、旧陸軍の「キ61 三式戦闘機」の愛称です。川崎航空機製で、ドイツのダイムラーベンツの技術を元に国産化した液冷エンジンを搭載した、スリムなデザインが特徴の戦闘機です。エンジン出力は、1100馬力、最高時速590㎞/hで、旧陸軍の戦闘機の中では、速度性能と高空能力に優れており、昭和18年(1943年)に陸軍の主力戦闘機として正式採用されました。アメリカ軍のB29爆撃機による本土空襲が激しくなる中、迎撃が可能な数少ない戦闘機のひとつであり、時には、敵機に体当たり攻撃を仕掛けることもありました。


旧陸軍調布飛行場白糸台掩体壕
 終戦後、調布飛行場周辺の掩体壕も、多くは取り壊され、現在は三鷹市の都立武蔵野の森公園内に2基(大沢1号・2号掩体壕)、府中市内に2基、計4基の有蓋掩体壕が残るのみとなりました。そのうちの1基が、この旧陸軍調布飛行場白糸台掩体壕(以下、「白糸台掩体壕」といいます。)です。
 白糸台掩体壕は、旧所有者が繰り返し補修を行ってきたことから、これまで良好な状態で保存されてきました。府中市では、平成18年(2006年)の平和都市宣言20周年を機に、白糸台掩体壕の保存・公有地化を決定し、平成19年12月から平成20年3月まで、その構造などを確認するための調査を実施しました。その結果、戦闘機「飛燕」とほぼ同じ規格で造られていたことが判明したほか、排水設備や砂利敷き、誘導路、実際に機体を格納していたことを示す、タイヤの痕跡などが発見され、平成20年(2008年)に市の史跡に指定しました。その後、コンクリートや鉄筋の保存修理を経て、平成23(2011)年度に保存整備を実施し、平成24年(2012年)3月より一般公開を開始しました。
 終戦から長い年月が経過し、戦争の記憶が風化していくなか、戦争遺跡を文化財として保存・活用していく気運は全国各地で高まっています。戦争の悲惨さや平和の尊さを次の世代へと語り継いでいくための貴重な歴史遺産として、市民の皆様と共同で白糸台掩体壕を永く保存・活用していくため、今後ともご理解・ご協力をお願い致します。





掩体壕




こちらは完全に民間の施設内にあるため遠くから見るしかできない。
今回たまたま敷地内の人がいらっしゃって、声をおかけしたら「中に入らないんでしたらいいですよー」とおっしゃってくださった。
近くで見ることができて良かった!




続く。