2019/11/30 三番町共用会議所一般公開

24時間勤務アケで、千鳥ヶ淵近くにある三番町共用会議所の一般公開へ行ってきた。
この会議所は「山縣有朋」の旧邸宅跡にある共用会議所。
全省庁が利用できる。





案内図

パンフレットから。

山縣有朋邸は関東大震災で大破、再建されたものの太平洋戦争時に空襲で焼失。
しかし、山縣氏自信が造った庭園は残されている。
会議所別館は、「大江宏」の設計とのこと。
代表的なものには大阪万国博覧会の日本館、国立能楽堂などがある。




会議所別館

左側が別館。



1Fバルコニー



1F B会議室



1F A会議室



2Fバルコニー



2F大臣室等








2F和室






2Fから庭園を臨む

真ん中少し左寄りにかなり大きなしだれ桜がある。
春に来てみたいなあ・・・・。



防空壕

2Fから



庭園から
良い写真が撮れてなかったなあ。
今は物置として使われているとのこと。




石碑



明治天皇がこの地に行幸されたことを記念して、山縣有朋が建立、表面には山縣有朋が詠んだ和歌が彫られています。




庭園







素晴らしい建築と庭園だった。
機会があったらまた来たい。
しかし、千鳥ヶ淵にこんな素晴らしい場所があったとは!
まだまだ知らないところがたくさんありそう・・・・。









パネル展示

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山縣有朋1838/06/14〜1922/02/01
政治家、軍人
 山縣有朋は、長州藩内の蔵本仲間(足軽以下の身分)山縣三郎有稔(ありとし)の子として生まれ、幼名は辰之助、明治雑新後は有朋と称した。

安政5年(1858年)尊皇攘夷派の久坂玄瑞梁川星巌(やながわせいがん)・梅田雲浜(うめだうんぴん)に感化され久坂の紹介で吉田松陰松下村塾に入塾し、生涯「松陰先生門下生」と言い続けた。

文久3年(1863年)高杉晋作奇兵隊創設とともに参加し、武芸や兵法の素養を活かし頭角を現し、低い身分の出身であった山縣が世に出るきっかけとなった。

明治維新後〉
明治2年(1869年)
 欧米各国の軍事制度を視察、西郷隆盛らの協力を得て軍政改革、徴兵制を取り入れた。
明治10年(1877年)
 西南戦争では官軍の事実上の総指揮を執り、練度や指揮で優る薩軍に対し物量及び兵力で対抗して鎮圧した。最後の城山の戦いでは、西郷へ自決を求める書状を送った。
明治22年(1889年)
 陸軍軍人としては初めて内閣総理大臣に就任(第一次山縣内閣)
明治23年(1890年)
 10月30日に教育勅語を発布、翌年に内閣総理大臣を辞任し元老となった。
日清戦争(1894〜1895年)
 第1軍事司令官として作戦の指揮をとり、戦果をあげたものの体調を崩し、明治天皇から「病気療養のため」という勅命を受け戦線から呼び返された。
 以降、元老として「山縣閥」と呼ばれる官僚、軍人の一大勢力を形成して政治への影響力を行使するようになった。

【周囲の評価】
 終戦直後、昭和天皇が皇太子へ宛てた手紙に「明治天皇の時には山縣、大山、山本等の如き陸海軍の名将があったが、今度の時は、あたかも第一次世界大戦独国の如く、軍人が跋扈(ばっこ)して大局を考えず、進むを知って退くを知らなかったからです。山縣が生さていれば日米戦争は起こらなかった。」と記されていた。
 また、山縣有朋は同じ長州満出身の伊藤博文と対比されることが多く「含雪公(山縣)と春畝公(伊藤)ほど対象的で、且つ力量の似通った一対も珍しい。」と評された。立憲政治に尽力した伊藤博文とは政治姿勢が連うものであったが、お互の仲は非常によく、良き相談役であった。





山縣有朋と邸宅
 山縣有朋は、各地に多くの邸宅を建てており、代表的な邸宅としては東京都文京区に残る「椿山荘」、京都市左京区の「無鄰菴(むりんあん)」、山縣有朋古稀(70歳)を迎えて小田原に建て晩年を過ごした「古稀庵」が現存しています。また、山縣有朋は造園に関しても造詣が深く、自然な風景を作ることで心地よい空間を構築する名手と評価されており、椿山荘、無鄰菴、古稀庵の庭園は近代日本庭園の傑作といわれています。

〇椿山荘
 明治11年当時「つばきやま」と呼ばれていたことから「棒山荘」と名付け、自ら指揮して、約2万坪(東京ドームの約1.5倍)の地形を生かした庭園を造り上げています。椿山荘はこれまでの庭園と違い眺望雄大な名園として、当時、明治天皇をはじめ政財官界の第一人者が重要会議を開いたと伝えられ、現在も結婚式場「椿山荘」としてよく知られています。

〇無鄰菴(むりんあん)第三
 無鄰菴は、明治27年〜29年に造営された山縣有朋の別荘で、庭園と母星・洋館・茶室の3つの建物によって構成されており、庭園は山縣有朋の指示に基づき七代目小川治兵衛が作庭した高い評価を受けていて、昭和26年に国の名勝庭園に指定されています。

古稀庵(こきあん)小田原別邸
 明治40年に70歳(古稀)を迎えた有朋が、小田原に別荘を建て「古稀庵」と名付け、 晩年を過ごしています。東京の庭國師岩本勝五郎に指示して築いた庭園は、相模湾箱根山を借景とし、箱根からの自然水を取り入れ滝を作るなど、有朋の庭園観を生かした名園と称えられています。現在は、あいおいニッセイ同和損害保険株式会社が所有していますが、毎週日曜日に一般公開されています。




三番町共用会議所
1,沿革
 江戸時代の三番町共用会議所周辺は、城内へ火災の延焼を防ぐための緩衝地帯として設けられた御用地で、建遣物はなく業単などが植えられていた様です。
 明治雑新後、兵部省の兵部大輔に任じられ上京した山縣有朋がこの地を購入し、明治18年(1885年)に麹町区富士見町1丁目一番(在千代田区九段南2丁目)に館を構えました。翌明治19年(1886年)に山縣有朋が内務大臣兼農商務大臣に就任したことを機に、農商務省大臣官含として国が購入して、山縣有朋の他にも、井上馨陸奥宗光後藤象二郎、複本武揚、大隈重信などが住まわれたと想像されます。

 当時の館の設計は、後に内匠*頭になった片山東熊氏で、外部は装飾こそないものの、屋内は大理石前飾りの暖炉、外国製の大鏡等が設えられていて、付属の官舎、馬繁所、馬車庫、駆者部屋、馬丁部屋があったと言われています。     *内匠:宮廷の工匠

2,経緯·变邊
 当時の土地建物は、土地3,659坪、本館:建坪248坪、延335坪、付属建物226坪ありましたが、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災により大破しています。昭和18年(1943元)に農商務大臣官舎として再築しましたが、昭和20年(1945年)5月24日の空襲で建物は焼失してしいます。 ←原文ママ
 その後、昭和27年(1952年)8月に、木造の旧本館を延べ面積247.62坪で竣功、昭和29年(1954年)6月に現存する別館を鉄筋コンクリート造二階、延べ面積250.70坪で竣功しました。
 別館の設計は、戦後日本を代表する建築家の一人である大江宏氏に依頼したもので、当時の流行を取り入れた構造で、柱が極端に細い特徴的なバルコニーなどがあります。
 本館は昭和48年(1912年)に鉄筋コンクリート(地下一階地上2階建)に建て替えられており、現存する別館と調和する外観となっています。
 平成11年(1999年)からは全省庁で使用する共用会議所として運用しています。




明治天皇行幸記念碑
1.概略
 山縣有朋邸(当地)で行われた銃剣術並演刀槍術天覧に、明治天皇行幸されたことを記念して、山縣有朋が建立したものです。碑文は隷書体行幸の一部始終が石版全体に書かれています。表面には山縣有朋が詠まれた和歌が本人の書体で彫られています。

2.碑文·和歌
行幸・読み下し】
 今年、十月十九日
 皇上(こうじよう)辱(かたじけなく)も有朋の私邸に臨まれ、栄えをなすこと宲大(仕舞うの意)。又、銀觥(銀杯)、貨幣を恩賜さる。有朋は謹んで来国光の刀一口及び(吉田)松陰先生の書二幅献上す。この日、宴に侍する者は、皇族、内閣諸候及び武官若干名なり。(陸軍)戸山学校の下士銃剣術を奏し、宮内官吏等は、刀槍術を演じ、叡覧に供す。上饌(じようせん)の方(かた)、昢(タ刻)となり陸軍楽隊をして奉楽せしむ。夜に入り、多くの球燈を点じ、煙火を放つ。既にして鹵簿(正装の儀仗兵の隊列)備わるを告ぐ。龍旗闕(けつ)(宮城)に還らる。嗟(ああ)有朋の幸、洶(まこと)に焉(これ)に過ぎるものなし。迺(すなわち)ち臨幸の始末を記し、併せて二品(銀觥、貨幣)の由来を録し、来茲(将来)に告ぐ。 明治十八年十一月 従三位 伯爵 山縣有朋 謹んで識るす。

行幸・概略】
 今年(明治18年)、十月十九日
 今上天皇が有朋の私邸に行幸され、光栄に預かること大である。又、銀杯、貨幣を下賜される。有朋は謹んで来国光の 1及び松陰先生の書二幅献上した。この日、宴に侍する者は、皇族、内閣諸侯及び武官若干名なり。陸軍戸山学校下士官銃剣術を宮内官吏等は刀槍術を演じて、御覧頂いた。饗応の際、タ刻となり陸軍楽隊に演奏をさせる。夜になり、多くの球燈を点け、煙火(花火?)を放つ。既に儀仗兵(の隊列の準補の知らせが入り、龍旗(錦旗)は宮城に還られた。有朋の幸この上なし。ここに臨幸の始末を記し、併せて二品の由来を録し、将来に伝える。
明治十八年十一月 従三位 伯爵 山縣有朋 謹んで識す。

【和歌・読み下し】
天津かせ  えたをならさぬ  君がよは
  こゝろ    のとけく    匂ふ梅かゝ




米価審議会
 米などの主要食糧の価格(政府買入価格(生産者価格)・政府売渡価格(消費者価格))の決定に関する基本事項を審議するため、生産者代表、消費者代表、学識経験者の委員で構成する農林水産大臣の諮問機関として設置されていました。
 1970年代は、米の消費量減少と減反政策、諸外国からの輸入自由化要求などから、生産者と消費者に利害が対立しましたが、米の流通自由化などもあり、審議会等の整理合理化に関する基本計画において役割を終えました。
 三番町共用会議所は、昭和38年以降の米価審議会の会場として使用されていました。


米価審議会会場に突入した農民
昭和42年年7月12日

倉石農相に面会を求めて
昭和42年年7月12

オシャモジ型のブラカードを手に米価値上げ反対を訴える消費者団
昭和49年(1974年)年9月3日




大江宏
1913/6/14〜1989/03/03
建築家、教育者

 戦後日本を代表する建築家の一人、大江宏は大正2年(1913年)に神田明神の設計を手がけた建築家大江新太郎の長男として秋田市に生まれています。昭和13(1938)年に東京帝国大学工学部建築学科を卒業して、文部省宗教局保存課に勤務、続いて三菱地所建築部技師となり、退職した後、昭和21年に弟の透・修と大江建築事務所を設立しています。
 大江宏は教育者としても活躍しており、法政大学工学部建設工学科の創設に携わり、昭和23年(1948年)に法政大学工業専門学校教授、昭和25年(1950年)に法政大学工学部建設工学科の誕生とともに教授に就任しています。昭和28年(1953年)にカーテンウォールが印象的な法政大学大学院校舎の設計を行なったのを皮切りに、同大学校舎の55年館、58年館、62年館の建築設計など、"インターナショナル・スタイルの一連の作例を発表しています。
 1950年代以降は、窓が大きく外光を取り入れる普連土学園、和洋折衷の角館町伝承館(現 角館樺細工伝承館)、日本の伝統建築を新しい解釈で生かした国立能楽堂などを設計した、多様な独創的な個性を感じる建築家です。
 三番町共用会議所別館は大江宏の初期の設計でありますが、当時の建築物としてはモダンな様式で、広いバルコニーに細い柱、コンクリート打ち放しの外壁など、往事の大江作品の特徴を垣間見ることができ、今も大江宏の設計の魅力を伝えています。 
”近代建築におけるインターナショナル・スタイルとは、個人や地域などを越えた、世界に共通する様式。






帰りに靖国神社へ立ち寄った。