2020/10/24 善福寺散歩 02 東伏見氷川神社/下野谷橋/庚申堂/下野谷公園/溜渕橋

東伏見神社の後は早稲田大学東伏見キャンパスを縦断する道路を南下。
青梅街道まで南下した後北東にある大きな公園(武蔵関公園)を目指す。



東伏見氷川神社

いつも参考にしている「猫の足あと」さんのページには「柳沢氷川神社」となっている。


榛名大権現石造物群

   文化四年(1807)造立、浄水盤
   文政二年(1819)造立、榛名大権現笠付塔一対
   文久二年(1862)造立、榛名大権現礎石
 明治元年(1868)維新政府は神仏分離を発令すると、神道による国民教化を目的として古代の神祇官(じんぎかん)にならい、伊勢神宮を筆頭に由緒の神社を官幣(かんぺい)各社から郷村杜、無格社等と格付けして神社の統治を図りました。明治四十年(1907)にいたると政府は、神道国教化を徹底するため、村段階では一村一村杜を標準にして他を村社に合祀せよと定め、実質的には神社整理を断行しました。
 このとき旧上保谷村下柳沢集落の鎮守であった榛名神社は、無格社として村杜に指定された尉殿(じょうどの)神社に合祀される対象となりました。以来氏子をあげて十年間の果敢な反対運動を行いましたが、国家神道にまで強化された政府の宗教政策には抗すべくもなく、大正四年(1915)ついに合祀となりました。その後昭和十七年(1942)埼玉県浦和市蓮見新田の村杜を引宮したのが現在の氷川神社です。境内「社殿改修記念碑」の碑文のとおり、相殿ながら榛名の神は昭和五十九年(1984)ようやく故地に戻りました。その長い由緒を伝える丈化財が榛名大権現石造物群です。


榛名社



 椿名神社は 永禄年間(約400年前)群馬県名神社の御分社として創建され 長く災忌除けの神として 村民の信仰を集めてまいりました
 明治四十年その筋の命により 尉殿神社に合祀され その後 昭和十七年三月 埼玉県浦和市蓮見新田に御鎮座の村社 水川神社を新たに氏神として御遷座いたしました
 明治四十年氏子民不本意の合祀以来七十余りを経て 昭和五十八年四月 尉殿神社より棒名神社御祭神の返還を受け 水川神社御相殿に御遷座を執り行ったものであります
 このたび 御祭神返還の御遷座を記念し 氏子及ひ崇敬者の奉納により 社殿屋根を銅板に葺替及び内外の改装を行うことがてきました


鳥居


参道入口








◆下野谷橋

下は石神井川





こちら道路両脇が早稲田大学東伏見キャンパス。







◆庚申堂



右側広い道路は青梅街道。







◆下野谷公園







◆溜渕(ためぶち)橋

下は石神井川












続く。