2021/02/25 北池袋散歩 02 首都高速5号池袋線/子易歩道橋/子易神社/東第9号踏切道/山手通り高架/大山金井町児童遊園/空襲犠牲者供養の地蔵

板橋区役所前駅御南側エリアへ移動。
高いところに道路がありすぎだね。
東武東上線の踏切を超えた後は西へ移動。



首都高速5号池袋線

こちらをくぐって反対側へ。
下の道は山手通り。










◆子易歩道橋

上記山手通りを超えるのに使った歩道橋。





この歩道橋床のタイルも動物さんが居た。

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デザイン、志村三丁目「相生歩道橋」のと似てるね。
2021/02/04 板橋中台散歩 08 環八高速下交差点/相生歩道橋/エビス参曾村三丁目店/志村三丁目19の公園/まいばすけっと志村三丁目/志村三丁目駅 - ovanの社会科見学









◆子易神社



 御祭神 木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
 創建年代は不詳であるが、境内地が延宝二年(1674)の水帳に記載されている。 安政三年(1856)の絵図には子安社と記され旧金井窪村の鎮守として、また社号から、安産、子育ての神として信仰を集めていた。その後子易神社と社号を改め、その御祭神から富士信仰と関わる神社としても知られる。
 境内に記られている明和二年(1765)銘の子安観音は、当神社の別当寺であった福正寺のもので、同寺が廃寺になった際、この地に移された。
 神社の入口にある「身替り地蔵」は、元禄八年(1695)造立されたもので、もと神社の裏手 (現金井窪保育園の地)にあった。台座に「右上尾」「左河越」と刻まれ、道標にもなっていた。この地蔵は「胸突き地蔵」とも呼ばれている。



 御祭神 木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)。
 創建年代は不詳ですが、延宝三年 (1674)の検地帳に境内地が記されており、それ以前から当地で氾られていました。古くは武州豊島郡金井窪村の鎮守であり、もと富士浅間神社の御分霊を遷祀(せんし)したものと伝えられています。
 江戸時代には別当の福正寺(ふくしょうじ)(福生寺とも称す、明治初年に廃寺)が当社を管理し、古来より安産・子育ての神様として広く信仰を集め、江戸時代より安産の御守札を頒布(はんぷ)していました。
 境内に祀られている子安観音坐像は、もとは福正寺の持仏と伝えられ、福正寺が廃寺となった際、当社へ遷座されました。像は蓮華座の上に結跏趺坐(けっかふざ)し、膝の上に朱色に彩色された子どもを抱いています。像は入母屋造りの厨子(ずし)に安置されており、厨子の屋根裏の墨書銘から、明和二年(1765)霜月十六日に氏子が願主となり開眼供養が行われたことが分かります。
 子易神社には祭礼に関する古文書が伝わっており、祭礼の運営が金井窪村の年番と若者衆により執行されていた点や、神楽師(かぐらし)を招き十八座神楽を奉納していた様子が分かります。また、祭礼寄進帳からは金井窪村をはじめ、遠く麹町や神田などからも寄進・奉納を受けていることが確認でき、当社の信仰範囲の広さを窺わせます。
 子安観音坐像及び子易神社文書は共に区の文化財に登録され、子易神社の歴史を伝えています。


子安観音菩薩御堂


稲荷社


諏訪神社


楽殿


鳥居(西側)


鳥居


鳥居前地蔵堂









◆東第9号踏切道

東武東上線の踏切。




上に架かる橋は山手通り。
さらにその上を首都高速5号池袋線が通る。



東武線の車両基地があった。









◆山手通り高架

上記、踏切から見えた高架。
こちらをくぐって反対側へ。










◆大山金井町児童遊園









◆空襲犠牲者供養の地蔵




 第二次世界大戦中の昭和二十年(1945)四月十三日夜、板橋から志村の地域にかけてアメリカ軍による空襲がありました。この空襲は、区内
最大の羅災者殺四万五千人を出し、板橋駅、区役所、養育院など板橋区の中枢を焼け野原にしました。
 この空襲で、当地の防空壕に避難していた、一人の乳児を含む九人が、爆弾の直撃弾を愛け犠牲になったといわれています。
 戦後、当地を購入し、公衆浴撮を開業した小川忠雄氏が、先の空襲による被害を知り、供養のために建てたのが、このお地蔵さまです。昭和二十五年(1950)に現在地に建てられました。八面の胴部分に一体ずつの地蔵が刻まれ、そのうちの一体が子供を抱いています。
 昭和四十九年(1974)には、覆屋(おおいや)も作られ、現在ではまちの方々によって大切におまもりされています。
 このお地蔵さまは、板橋区における空襲の事実を伝え、後世に戦争の悲惨さと平和の尊さを伝える史跡として、平成七年度、板橋区の記念物に登録されました。










続く。