2021/04/20 東尾久散歩 07 馬頭観音/尾久の原公園/十三坊塚/東尾久六丁目防災広場/ぬりえ美術館/子育地像尊

尾久の原公園から南下。
尾久の原防災通りへでてさらに南下。



馬頭観音



上尾久村の馬捨場跡(馬頭観音
 馬捨場の本来の位置および範囲は、東尾久七丁目三六一二番地、三四八四番地あたり(西方五十メートルのところ)と推定される。平成十二年、スーパー堤防の建設に伴って小祠や石像物がここに移設された。
 かつて、荒川沿いのこのあたりは、秣場(まぐさば)と呼ばれていた。秣場とは、田畑への施肥である刈敷きや、牛馬の資料をする草の共有の採取地のことをいう。江戸時代後期には、新田開発されていくが、その呼称は地名として大正時代まで使われていた。
 この秣場の中に、馬捨場があった。牛馬は、田畑を耕すため、荷物の運搬に欠かせない動物であり、特に馬は、軍事用、宿駅の維持のために重視された。しかし、年老いたり、死んだ際には、ここに持ち込まれ、解体されて、武具・太鼓などの皮革製品や、肥料・薬品などの製品として活用されることになっていた。こういった馬捨場は他の各村々にも存在し、生類憐み令では、解体後の丁重な埋葬が求められた。
 明治時代になって、馬捨場は使命を終えるが、荷を運ぶ運送業者の信仰を集めたり、戦争で徴用された馬を供養する場ともなり、跡地は別の意味合いを帯びていくようになっていった。近年まで、馬の供養のための絵馬を奉納したり、生木で作ったY字型のイヌソトバを供える習俗が残っていたという。現在、天保十二年(1841)及び大正時代の馬頭観音のほか竹駒稲荷などが祀られ、また開発によって移された石塔類も置かれている。この内、寛永十五年(1638)十二月八日銘の庚申塔荒川区最古のものである。


石塔


石塔










◆尾久の原公園

かなり大きな公園だね!














◆十三坊塚



 文政十一年刊の「新編武蔵風土記稿」によると、上尾久(かみおぐ)村に高さ五尺(約150cm)ばかりの塚が四ヶ所、下尾久村に高さ五尺、周囲七八しゃく(約210~40cm)の塚が八ヶ所あって、それらを「十三坊塚」と呼んだという。この内、下尾久村にあった砂利塚からは太刀と具足が出土したと記されている。
 この塚は両村の境にあったと思われ、上尾久村には「十三坊」という小字(こあざ)があった。十三坊塚は全国に分布し、境界の目安や、村境において災いや疫病・害虫の侵入を防ぐ役割を果たしていたものと推測されている。塚は大正初期まで八基ほど残っていたが、大正六年に旭電化の敷地となって消滅した。「旭電化通り」の名は、この地にあった旭電化工業尾久工場にちなむ。









◆東尾久六丁目防災広場









◆ぬりえ美術館

今回は中へ入らなかった。
ぬりえ美術館/荒川区公式サイト









◆子育地像尊









続く。