◆神田須田町二丁目
現在の神田須田町二丁目が生まれたのは、昭和八年(1933年)のことです。大正十二年(1923年)の関東大震災の後、東京の町は再編されました。その一環として元柳原町、柳町、小柳町、平永町などの町が合併され、いまの町の区域が定められたのです。
関東大震災から二十二年後の昭和二十年(1945年)、第二次大戦下の空襲によって東京はふたたび焼け野原となってしまいます。とくに三月十日の東京大空襲では、東京の東半分がほぼ焼き尽くされました。そんな中にあって、須田町二丁目は町の人々が一致団結して防火にあたったため、町内の一角は戦火をまぬがれることができました。
戦後、須田町二丁目周辺は、ラシャの切り売りなどを生業とする業者が集まり、一時は日本一といわれるほどの繁盛ぶりを示しました。その賑わいも、空襲から命をかけて町を守った人々の努力があったからこそ生み出せたのです。町を愛する住民の気持ちは、戦後も変わりませんでした。
昔から祭り好きの人たちが多い土地柄ですが、この界隈には、神田神社・柳森神社・下谷神社の氏子が集まり住んでいます。いまでもこの須田町に住む人々は、三社の祭礼を五月にまとめてとりおこない、住民が一丸となって伝統ある神田の祭りを盛り上げています。
◆東北線(13)平永橋ガード
こちらをくぐって線路の反対側(西側)へ
◆中央線(2)小柳橋ガード
こちらをくぐって線路の反対がwあ(西側)へ。
◆鉄道保線の心
平成四年六月、鉄道保線技術向上に尽くした 保線技衔者を表彰するために設立された 『公益信託鉄道保線振興基金』が運輸省 の認可を受け,平成六年三月 に第一回の表彰式が行われました。
この基金は、昭和六十二年に国鉄がJRとして新しく発足することを受け、国鉄の歴史に敬意を表しながら、JRの発展を祈 っての記念事業として、奥原之浩氏を中心に多くの方々のご尽力で設立されたものです。
発足から十五周年の本年、ここに、記念碑を建立し、鉄道保線を友えた人々の功績を永く称えるとともにさらなる保绵技術の向上発展を祈念效します。
続く。