2022/08/22 湯島天神


何度か来ているのだが、写真は全部撮っていなかったらしい。
今回は以前の写真と合わせてまとめてみた。
過去の写真は日付が入っている。



2018/04/12撮影

湯島神社は湯島天満宮湯島天神として全国津々浦々まで知られている。
雄略天皇の勅命により、御宇2年(458)1月創建と伝えられ、天之手力雄命を奉納したのがはじまりで降って正平10年(1355)2月郷民が菅公の御偉徳を慕い、文道の大祖と崇め本社に勧請した。
文明10年(1478)10月太田道灌これを再建し、天正18年(1590)徳川家康公が江戸城に入るにおよび特に当社を崇敬すること篤く、翌19年11月豊島郡湯島郷の内5石の朱印地を寄進し、もって祭祀の料にあて、泰平永き世が続き文教大いに賑わうようにと菅公の遺風を仰ぎ奉ったのである。
その後林道春、松永尺五、堀杏庵、僧堯恵、新井白石など学者文人の参拝たえることなく続いた。徳川綱吉公が湯島聖堂昌平坂に移すにおよびこの地を久しく文教の中心として、当天満宮を崇敬したのである。明治18年い改築された社殿も老朽化が進み、平成7年12月後世に残る総檜木造りで造営された。




戸隠神社




笹塚神社




戸隠神社/笹塚神社 鳥居




宝物殿




奇縁氷人石




「新派」碑



 この「新派」の記念碑は新派劇創立90年を迎えた昭和52年(1977)11月1日松竹株式会社と水谷八重子氏により新橋演舞場玄関脇に建てられました。              
 新派の始まりは明治21年(1888)12月自由党荘士角藤定憲が同志を集め大阪の新町庄で「大日本壮士改良演劇会」の旗揚げをしたのが起源とされています。風雪はげしい90年ではありましたが、今日「劇団新派」として隆盛を見ましたその先人たちの苦労を偲び併せて今後の精進を誓うべく記念碑の建立を見た次第です。
 そして新橋演舞場の改築にあたり当湯島天神様のご好意により新派とは深い縁で結ばれております当天神様のご境内に移させていただいたものです。
 なお碑の題字は作家の川口松太郎氏の揮毫により設計は舞台美術家の中嶋八郎氏です。左側の梅樹は昭和31年(1956)新派の名優故花柳章太郎氏の献木によるもので奇しくも記念碑と献木が同じこの場所に並んだ次第です。




文具至宝碑/瓦斯灯



中国より渡来した紙筆墨硯は文房四宝と称せられ読み書き算盤の寺子屋時代から明治の学制発布により高い文化を育てる文具として大きく貢献をしてきた
今や文房具はOA器機にいたる迄その範疇を広げ四宝から至宝に至って戦後の日本国を世界の大国に復興せしめた教育の原動力となった十一月三日(文化の日)を文具の日として定め平成元年を迎えるに当たり先人に報恩感謝の念を捧げつつここ学問の神さま湯島天神の境内に文具至宝碑を建立する



東京2020パラリンピック聖火リレー
東京2020 パラリンピック競技大会の聖火は、全国各地から集められた火が1つになって創られます。
文京区は、令和3年8月20日湯島天満宮境内の瓦斯灯から採火しました。
この「文京区の火」 は、 誰もがさらに生き生きと活躍できる未来へ向けて、 木遣りの掛け声とともに、 東京2020 パラリンピック競技大会へ送り出されました。

瓦斯灯
瓦斯灯は、明治の時代を象徴する文明開化のシンボルです。 特に湯島天満宮の瓦斯灯は、泉鏡花の小説 『婦系図」を主題にした楽曲 『湯島の白梅』 にも登場し、全国に広く知られています。
境内に5基あった瓦斯灯は昭和40年頃には撤去されましたが、昭和56年に再設置されました。 今では瓦斯灯の価値が再評価され都内各所で見られるようになりましたが、この瓦斯灯はその先駆けとなりました。




講談高座発祥の地碑

 江戸時代中期までの講談は、町の辻々に立っての辻講釈や、粗末な小屋で聴衆と同じ高さで演じられていた。
 文化4年(1807)湯島天満宮の境内に住み、そこを席場としていた講談師伊東燕晋が、家康公の偉業を読むにあたり庶民と同じ高さでは恐れ多いことを理由に高さ三尺、一間四面の高座常設を北町奉行田切土佐守に願い出て許された。これが高座の始まりであり、当宮の境内こそ我が国伝統和芸、講談高座発祥の地である。




日時計



 此の日時計は御大典を記念して寺島又吉氏、奥村ぬい氏より鍛治橋の欄干を軸に日時計を作り奉納されたもので、御参拝の人々から親しまれてきました。
戦後の混乱期に放置のまま永い間忘れられておりましたが、今回スイス・ラドー日本総代理店酒田時計貿易株式会社の御好意により、水平式日時計として復元して戴いたものであります。




小唄顕彰碑

刻まれているのはすべて人命のようだね。




梅園建設碑

返り咲く湯島の白梅
この度、湯島神社社境内に梅樹が植えられた由来は第二次世界大戦後明治、大正両時代は立派な梅樹の神苑であったが境内の梅樹がいつか雑木に植えかえられ荒廃していたものを、昭和30年(1955)11月より約三ヶ年半に亘り後記氏子のよいことをする会の湯島公道会々員及後援会々員、同会学習部々員の日夜に及ぶ勤労奉仕作業により近郷より梅の古木を探し譲り受けて移植し湯島神社梅園建設の基となり今日湯島の梅園として東京の名所となる




都都逸之碑

都々逸(どどいつ)は日本語の優雅さ言葉の綾言回しの妙などを巧みに用いて人生の機微を二十六字(七・七・七・五)で綴る大衆の詩である古くより黒岩涙香平山蘆江長谷川伸らの先覚者により普及しわれわれとその流れの中で研鑽を重ねて来た短歌俳句と並ぶ三大詩型の伝統を守り更なる向上と発展を願い各吟社協賛の下詩歌の神の在すこの地に碑を建立する




努力碑(王貞治




夫婦坂




男坂

2018/04/12撮影




女坂

2018/04/12撮影




銅鳥居

2018/04/12撮影




鳥居