2023/01/31 ひばりヶ丘・三鷹散歩 08 武蔵野中央公園/武蔵野緑町二丁目アパート/武蔵野緑町二丁目第3アパート/東京スタジアムグリーンパーク球場跡/武蔵野緑町パークタウン/中島飛行機武蔵製作所工場 正門跡

前の日記からの続き。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2023/01/31/163000




◆武蔵野中央公園

別のページで!
2023/01/31 武蔵野中央公園(武蔵野市平和の木、中島飛行機武蔵製作所 爆撃照準点、中島飛行機武蔵製作所「地下道」) - ovanの社会科見学






◆武蔵野緑町二丁目アパート







◆武蔵野緑町二丁目第3アパート








東京スタジアムグリーンパーク球場跡


武蔵野の戦争の記憶を訪ねて

東京スタジアムグリーンパーク球場跡
 第二次世界大戦当時、 現在の市役所から都立武蔵野中央公園にかけて、 ゼロ戦や隼などのエンジンをつくる 「中島飛行機武蔵製作所」という東洋一の規模を誇る軍需工場がありました。
 このため同工場は米軍の攻撃目標となり、 1944 (昭和19) 年11月24日、マリアナ基地から飛び立ったB29による本土初の空襲を受けました。 以降、 終戦までに9回もの爆撃を受け、 亡くなった方は工場だけでも200名を超え、 周辺住民の方も数多く犠牲となりました。
 壊滅的な被害を受けた旧東工場は戦後解体され、 1951 (昭和26) 年5 月に 「東京スタジアムグリーンパーク球場」 がこの場所に完成しました。 当時、 この球場は後楽園球場よりも大きく 「東日本一の大球場」 と大きく騒がれました。 また、 武蔵境駅から工場内まであった引き込み線を利用して、 三鷹駅から球場までをつなぐ鉄道路線が完成し、 新たに 「武蔵野競技場前駅」 が作られました。
 この年に行われた試合は、プロ野球が16試合、 東京六大学野球が19 試合、 高校野球の予選会が31試合で年間を通しても66試合しか開催されませんでした。 球場内の砂ぼこりがひどかったことと、 都心からの交通の便が悪かったことなどがその理由で、 同球場はわずか1シーズンで閉鎖されました。
 その後、球場は解体され、 跡地には公団住宅が建設されるなど、 現在は緑の多い住環境に生まれ変わりました。 少しくぼ地となっているこの辺りが、 球場のグラウンド跡で、 周辺のカーブのある道路などに当時の面影が残されています。







◆武蔵野緑町パークタウン






中島飛行機武蔵製作所工場 正門


武蔵野の戦争の記憶を訪ねて

中島飛行機 武蔵製作所 工場正門跡
 現在の市役所から都立武蔵野中央公園にかけて、 戦前の日本を代表する航空機メーカーであった中島飛行機株式会社のエンジン製造工場であった武蔵製作所という巨大軍需工場がありました。 敷地面積は、約56万㎡、 東京ドーム約12個分の広さでした。 この工場では、約5万人の従業員が働き、 日本の軍用機用エンジンの3割ほどを生産していました。 このため、 第二次世界大戦末期には、 アメリカ軍の爆撃機B29によるマリアナ諸島からの日本本土最初の攻撃目標となり、 終戦までに合計9回もの爆撃を受けました。 死者は、工場の従業員だけでも200名以上、負傷者は、 500名以上といわれており、 周辺の一般住民にも多くの犠牲者が出ました。
 現在、高齢者総合センターがあるこの場所は、 当時、工場の正門入口があった場所です。 (右写真参照) 中島飛行機は、 1938 (昭和13) 年、 陸軍専用工場の「武蔵野製作所」 (写真右側) を、この地へ進出させ、この場所に工場の正門が作られました。 その後、1941 (昭和16) 年に武蔵野製作所の西隣に海軍専用工場の 「多摩製作所」が完成し、 1943 (昭和18) 年、 両工場は合併を経て、 中島飛行機武蔵製作所 「東工場」、 「西工場」とそれぞれ名称が変わりました。
 当時、この正門から出入りできる社員は、工場の幹部クラスだけと言われており、 一般の従業員は、別の入口から、工場敷地内に数キロメートルにおよび張り巡らされていた地下道を通り各職場に通っていました。






続く。
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