近藤生家「宮川家」
天保五年(1834)十月九日、武蔵国多摩郡上石原(かみいしわら)村辻(現在の調布市野水一丁目)の宮川家に三人目の男子が生まれ、勝五郎と名付けられた。 天保九年(1838)の上石原村「宗門人別(しゅうもんにんべつ)五人組帳」によれば、宮川家は多摩郡大沢村龍源寺(りゅうげんじ)の旦那(檀家)で、家族構成は百姓源次郎(宮川家の当主は代々「源次郎」を名乗った)六十七歳を筆頭に、倅の久次郎(ひさじろう)四十歳(近藤勇の父)、娵(よめ)のみよ三十七歳(勇の母)、孫の音二郎九歳、粂蔵(くめぞう)七歳、勝五郎五歳の六人であった。宮川家は裕福な農民であったといわれているが、「宗門人別五人組帳」の記載をみる限りでは、石高は七石一斗二合で、上石原村では中間的な階層に属していた。
天然理心流入門、近藤家養子に
龍源寺にある「神文(しんもん)血判帳」(近藤周助の門人帳)によれば、宮川家の三兄弟は、 嘉永元年(1848)十一月十一日に揃って 天然理心流 近藤周助の門人となっている。 嘉永二年 六月に周助が宮川勝五郎に与えた目録も龍源寺にある。同年十月十九日付けで周助から上石原村の源次郎(勝五郎の父)宛に養子縁組の書状が出され、勝五郎は入門後あまり時を経ずに天然理心流を継ぐため周助の養子となったことがわかる。養子になって周助の旧姓島崎を名乗り、名前も勝太と改めた。 安政四年 ( 1857 )頃までには島崎勇となり、万延元年(1860)三月に松井ツネと結婚した。その後、近藤勇を名乗り、文久元年(1861)八月、府中六所宮( 大国魂神社 )で天然理心流四代目の襲名の野試合を行い、翌年には一人娘の瓊(たま)が生まれた。
浪士組に参加して京へ、そして 新選組 結成
文久三年(1863)二月、近藤勇は上洛する将軍 徳川 家茂 警護のために編成された 浪士組 に道場の門人たちと共に参加したが、浪士組が江戸へ戻ることになった時、京都残留の嘆願書を提出し、京都守護職の任にあった会津藩預かりとなり、京都市中の見回りに当たることになった。以降、 慶応四年(1868)一月、隊士と共に江戸に戻るまで、当時政局の中心となっていた京都で新選組局長として活躍した。
近藤勇、板橋で死す
慶応四年 三月、甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)が 甲州街道 を甲府へ向かう途中大久保剛と名を変えた勇は、上石原の鎮守(ちんじゅ)である上石原若宮(わかみや)八幡神社を遥拝して戦勝祈願、西光寺向かいの名主中村勘六家で歓待を受けたと伝えられている。甲州柏尾(かしお)山で官軍に敗れ、その後、新たに隊士を募集して下総流山に陣をしいた。しかし、そこで官軍に包囲されて出頭、 慶応四年 四月二十五日に板橋において刑死した。勇の甥宮川勇五郎は、板橋の刑場で肩の鉄砲傷( 慶応三年 十二月伏見墨染付近で負傷)を目印に首のない勇の遺体を掘り起こし、上石原村の生家近くにある龍源寺へ埋葬した。勇の無言の帰還を一族の人びとは 野川 にかかる相曽浦(あいそうら)橋で迎えたと伝えられている。龍源寺の近藤家墓所には、勇の一人娘瓊と結婚して近藤家を継いだ勇五郎やその息子の久太郎も眠っている。また、近くには勇のいとこで新選組隊士だった宮川信吉(勇の父久次郎の妹の子)の墓もある。
近藤勇生家跡
この地は 新選組 局長 近藤勇 の生家跡である。
近藤勇は、天保五年(1834)宮川久次郎の三男(幼名勝五郎)としてこの地に生まれ育った。
十五歳の時 天然理心流 近藤周助に入門、翌年理心流の目録を得て周助の養子となり近藤姓を名乗った。
当時、宮川家の屋敷は面積約七千平方メートルの広さがあり、建物は母屋のほか蔵屋敷、文庫蔵、乾燥納屋、地下蔵、農具入納屋等があり、周囲はケヤキ、カシその他の大木や竹林が茂っていた。現在の跡地は、屋敷の東南部に位置し、昭和十八年に家がとりこわされるまで使用していた井戸を残すのみである。
◆近藤勇 産湯の井戸
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近藤勇生家跡 | 調布市
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