2025/03/02 分梅碑









 分梅(ぶばい)は、現在の分梅町二・三・四・五丁目の一部(鎌倉街道分梅通り沿い)に集落の中心があった村落です。この集落は本町に属しており、 「新編武蔵風土記稿』(幕末の地誌)には「本町」の小名としてその名が見えます。 分梅はもとハケ上の上分梅(八雲神社辺り)に集落の中心がありましたが、多摩川の流れが南に移ったあと分倍河原に進出したといわれています。古くは「分倍倍)」や「分配」の字があてられ、「ぶんばい」と呼ばれていたこともありますが、近世以降には「分梅」が多用されています。
 地名の起こりは、不明ですが、この地がしばしば多摩川の氾濫や土壌の関係から収穫が少ないために、口分田を倍に給した所であったという説があります。






◆旧鎌倉街道散歩

 旧鎌倉街道散歩は、永山駅から府中駅までの約6.5Kmのみちのりです。「いざ鎌倉」で知られる鎌倉街道は中世の軍路。北条氏と新田氏の合戦の舞台となった関戸・分倍河原古戦場跡をはじめ、鎌倉街道沿いの史跡・旧跡をめぐる散歩道です。

北条氏と新田氏の戦い
 建久(けんきゅう)3年(1192年)源頼朝が鎌倉に幕府を開き、その後北条氏が実権をにぎると、鎌倉街道の要衝として政治・軍事・交通の面で府中はこれまでに増し重要な地位をしめるようになった。
 また、多摩川は北に対する防備線として、軍事上特に重要視されていた。武士の争乱の続く中で、 元弘(げんこう)3年(1333年) 上州(上野国(こうづけのくに)) 新田荘に倒幕の旗を揚げた。
 新田義貞は5月16日分倍河原北条泰家率いる幕府軍を急襲した。 これが分倍河原の戦いである。 多摩川をひかえた北の防衛線を破られた北条氏は、新田勢の進撃を防ぎきれず鎌倉に攻め込まれ、滅亡の道をたどった。







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