2025/05/08 江戸東京たてもの園(村上精華堂 (化粧品屋))





 村上精華堂は、台東区池之端不忍通りに面して建っていた化粧品屋である。奥の土間で化粧品の製造を行い、 卸売りや、 時には小売りを行っていた。 創業者の村上直三郎氏は、アメリカの文献を研究して化粧品を作ったと言われている。そのせいか、建物はイオニア式の柱を並べたファサードをもち、 西洋風のつくりとなっている。 この建物は関東大震災後、東京市内に多く建てられた看板建築の一種で人造石洗い出し仕上げである。
 1942年(昭和17) 頃、村上精華堂の本店が浅草向柳原に移り、この建築は支店となった。
 1955年(昭和30) 頃には化粧品屋としては使われなくなり、 1967年(昭和42) 二代目の村上専次郎氏より寄贈者の増渕忠男氏に譲渡された。
建築年 : 1928年 (昭和3)
旧所在地: 台東区池之端二丁目
寄贈者 : 増渕忠男氏 (日增屋)
協力者 : 村上かん氏






化粧の歴史
 江戸時代、 身分や階層、 未既婚の区別などをあらわす化粧として、 「お歯黒」 と 「眉化粧」があった。 お歯黒は、 おもに結婚した女性が歯を黒く塗るもので、 はじめて塗る時には、お歯黒を塗る手ほどきが行われ、 お歯黒道具一式がお祝いとして贈られることがあった。眉化粧は、 公家や武家など上流階層の女性が、 ある年齢になると眉を剃り落とし、定めら
れた形の眉を描くものだが、 庶民の間では、 妊娠後や出産後に眉を剃るのみであった。
 こうした化粧は上流階層の女性に求められた規範であったが、これに対して化粧をおしゃれとして楽しむ風習が庶民階層に普及したのは江戸時代後期のことであった。
 江戸時代の美人の条件として重視されたのが、 色白であることであった。 その白い肌を作るために白粉が化粧として用いられた。 加えて紅も重要な化粧品で、 唇や頬などに薄く塗ったり、まったく塗らなかったり、 濃く塗ったりと様々であった。 当時からきめ細やかでつややかな素肌を目指すために洗顔の習慣も普及しており、 洗顔料としてぬかが用いられていた。 家庭で化粧水を手作りすることも多く、 「へちま水」 や 「きゅうり水」 などが作られた。 また 「おしろいがよくのる」 化粧水として発売された 「江戸の水」は、巧みな宣伝もあって人気を博した。
 明治時代になると、 政府は海外から技術者を招いて、 欧米の技術や知識の導入に力を入れた。それは化粧品の研究開発にも活かされ、国産の洋風化粧品が誕生した。 大正時代には婦人雑誌が相次いで創刊され、 新しい化粧法が庶民へと急速に広まった。 そして関東大震災後、 近代化が進んだ日本の都市では、 「モダンガール」と呼ばれる、 断髪に洋装という先端的な出で立ちの女性が登場した。 彼女たちは、 唇の形に合わせて薄く幅広に口紅を塗り、 眉は細くこめかみまで垂れ下がるように引く「引眉毛」にし、 それまであまり定着していなかった頬紅も、1つのポイントとなった。
 しかし日中戦争から第二次世界大戦へと進む中で、 流行の兆しを見せた洋風のメイクは姿を消し、再び白粉やクリームなどで肌を整える「身だしなみ」 重視の化粧に取って代わった。 戦争が長期化し統制が進むと、 化粧をめぐる状況は厳しくなり、 化粧品業界にとっては冬の時代となった。





看板建築とイオニア式の柱
「看板建築」 の大きな見所は、大胆な和洋折衷と個性あふれるファサード(建物の正立面) である。 村上精華堂もまた、 洋風のファサードに、 寄棟造り桟瓦葺きの和風屋根および3階バルコニーの意匠といった組み合わせが和洋折衷の性格を示している。
 村上精華堂の外観は、 イオニア式の列柱を並べたファサードがきわめて特徴的である。 西洋建築の初源であるギリシャ・ローマ建築では「オーダー」 と呼ばれる構成原理に基づいて建築物がつくられた。
 オーダーの種類は大きく分けて3つの種類(「ドリス式」、「イオニア式」、「コリント式」)があり、イオニア式オーダーは渦巻き型の柱頭が特徴的である。こうしたオーダーは明治期以来、 正規の教育を受けた建築家たちがこぞって作品に用いたものであるが、 村上精華堂のような看板建築に見られる例は珍しい。 柱の間隔や、プロポーション、素材などの点において、本格的な西洋建築の意匠とはかなり差異があるが、そのことがむしろ自由な創造意欲の現れとして、 建物にユニークな魅力を与えている。