2018/12/30 築地散歩 03 新富復興稲荷/新富橋/大野屋/新富町駅/土佐藩築地邸跡/中央区役所

新富町駅付近を散策。
こんなに橋があったことにびっくりしている。
この写真の地図を参考にgoogle mapに載っていないところを探してみたのだが、だいぶ変わってるようだ。
京橋税務署も調べたら無くなってるんだね。。。。





◆新富復興稲荷神社





◆新富橋




ここも下は高速道路。




◆大野屋




HPがあった。
ものすごい老舗さんだね!!
www.oonoyasohonten.jp



新富町駅

東京メトロ有楽町線新富町」駅。




土佐藩築地邸跡

説明板の後ろ、茶色い建物は中央区役所。



 この地は、江戸時代前期に埋立てられ、武家地や町人地となりました。文政九年(1826)、この一帯の土地がまとめられ、土佐藩山内家が拝領しました。山内家は中屋敷ないし下屋敷にしていたようで、幕末までこの地にありました。
 土佐藩は初代山内一豊から十六代豊範まで続きました。幕末の変革期に有名な山内豊信(容堂)は十五代で、ここに屋敷を構えていたときに藩主でした。
 豊信は、安政五年(1858)の条約勅許や将軍の継嗣問題において、一橋慶喜(後の十五代将軍)を擁立する一橋派に協力しましたが、家茂(後の十四代将軍)を推す大老井伊直弼に敗北し、豊信は藩主を退きました。この後、井伊直弼が暗殺されるなど、政情は混乱していきます。そのような中で、豊信率いる土佐藩は、幕府に大政奉還を働きかけてこれを実現し、後の版籍奉還廃藩置県に至るまで、薩摩藩長州藩と並んで明治維新の先頭に立っていました。
 なお、幕末に土佐勤王党を結成して幕府打倒を掲げた武市半平太は、ここから程近い士学館道場(現銀座一丁目、京橋公園辺り)に通っていました。
また、薩長同盟を成立させ、大政奉還を提言した坂本龍馬は、安政三年(1856)から同五年ころ、剣術修行のため江戸に来ていました。龍馬はこの地の土佐藩築地邸に寄宿しながら、桶町(現八重洲二丁目・京橋二丁目の一部)にあったとされる千葉定吉道場に通っていたようです。



中央区役所

前の日記三島氏の文章「橋づくし」に出てくる中央区役所はそのときのままかな?
と思って調べてみた。
建物は1969年に建築家・佐藤武夫氏の設計で竣工。
三島氏が割腹自殺をしたのが1970年。
「橋づくし」は1956年「文藝春秋」発表の短編。
ということなので、この建物はまだ建っていなかったことになるなあ。



藤武夫氏を調べてみると、ホテルニュージャパンを手掛けているね。
早稲田大学の大隈講堂は重要文化財とのこと。


続く。