2018/12/30 築地散歩 02 三つ橋跡/自動電話交換発祥之地/京橋公園/桃井道場(士学館)跡/安平神社/三吉橋

京橋付近から新富町駅方面に向かう。
今まで歩いたことがないルートだった。



◆三つ橋跡




 ここから北方約30mの地点には、明治の年末まで、北東から楓(もみじ)川、北西から京橋川、東へ流れる桜川、南西へ流れる三十間堀が交差していました。この交差点に近い楓川に弾正(だんじょう)橋、京橋川に白魚橋、三十間堀に真福寺橋が架かり、この三橋を三つ橋と称していました。
 三つ橋は、すでに寛永九年(1632年)作成といわれる「武州豊嶋郡江戸庄図」に図示されていますが、橋名の記入はなく、橋名についても幕末までいろいろ返遷がありました。
 明治末に真福寺橋、昭和三十四年(1959年)に白魚橋がいずれも河川の埋立てによって廃止され、弾正橋は昭和三十七年(1962年)、高速道路工事によって現在の姿となりました。



◆自動電話交換発祥之地




自動電話交換開始記念碑

 我が国における自動電話交換方式の発祥は 大正15年1月20日, 旧京橋電話局の交換業務 開始による。自動電話交換開始50年に当り 京橋電話局跡であるこの地に,、記念碑を造り昭和50年1月20日除幕した。記念碑は当時の 自動電話交換機の回路図の一部を図案化したものであり, 銘板は米澤滋博士の筆による ものである。


米澤滋博士をWEBで調べると、電電公社時代の三代目総裁であった。
それ以上の情報が見当たらない。



◆京橋公園




◆桃井道場(士学館)跡(京橋公園内)

google map には「桃井道場(士学館)跡」とあったが、現地に着くと下の説明板があった。




 かつて、この地より北側の新富一丁目一番・銀座一丁目二六番付近では、北から流れる楓川(もみじがわ)・西から流れる京橋川・そして南西へと流れる三十間堀が交差していました。それぞれの川筋には、弾正橋・白魚橋・真福寺橋の三つの橋が架かっていたことから、この付近は「三つ橋」と呼ばれていました。
 蜊河岸は、江戸時代以来、三つ橋付近の河岸地の里俗名でしたが、明治十三年(1880)に公布された東京府達によって、三十間堀に架かる真福寺橋から月慈方面へと南に延びる東岸の河岸地の正式名称となりました。
 江戸時代後期には、江戸三代道場のひとつ、鏡新明智流(きょうしんめいちりゅう)の剣客桃井春蔵 の「士学館」がおかれ、嘉永六年(1853)再版の『近江屋板切絵図』には、蜊河岸の南端に、「桃井春蔵」の名を確認することができます。





◆安平神社






◆三吉橋






下は高速道路。




 この橋は、築地川の屈曲した地点に、楓川と結ぶ水路(楓川・築地川連絡運河)が開削され、川が三叉の形となった所に、関東大震災後の復興計画の一環として、昭和4年(1929年)12月に三叉の橋が架けられました。
 ここに川が存在し、人々の暮らしも川を中心に営まれ、川筋を酒荷の船などが通った情緒ある風景も、今は埋立てられ高速道路と化し、陸橋となりました。
 中央区では、平成4・5年にわたり、高欄には水辺に映える木立ちの姿を採り入れ、照明は架設した当時の鈴蘭燈に、又一時期高速道路のランプとなり一部撤去された歩道も復元し、古き風情を感じさせるデザインで修景しました。




 四人は東銀座の一丁目と二丁目の堺のところで昭和通りを右に曲った。ビル街に街灯のあかりだけが、規則正しく水を撒いたように降っている。月光はその細い通りでは、ビルの影に覆われている。
 程なく四人の渡るべき最初の橋、三吉橋がゆくてに高まって見えた。それは三叉の川筋に架せられた珍しい三叉の橋で、向う岸の角には中央区役所の陰気なビルがうずくまり、時計台の時計の文字板がしらじらと冴えて、とんちんかんな時刻をさし示している。橋の欄干は低く、その三叉の中央の三角形を形づくる三つの角に、おのおの古雅な鈴蘭燈が立っている。鈴蘭燈のひとつひとつが、四つの燈火を吊しているのに、その凡てが灯っているわけではない。月に照らされて灯っていない灯の丸い磨硝子の覆いが、まっ白に見える。そして灯のまわりには、あまたの羽虫が音もなく群がっている。
 川水は月のために擾されている。
三島由紀夫「橋づくし」)


続く。