2019/11/02 02 梅ヶ丘散歩 02 文化財ウィーク「国士舘大講堂」

文化財ウィークで一般公開中の「国士舘大講堂」を見に国士舘大学へ。








ちょうど学祭やってて賑やかだった。






国士舘大講堂

大正6年(1917)に柴田徳次郎に麻布笄(こうがい)町に創設。
大正8年(1919)に世田谷の現在地へ移転、大講堂はその時に建設され、創立期から唯一現存する建物とのこと。


設計者などの情報が見当たらなかったなあ。
ご存知の方がいらっしゃったら教えてください。
(o*。_。)oペコッ




登録有形文化財、大講堂
1919(大正8)年9月完成/木造平屋/建築面積285.34m
 国土館が、1919年の世田谷移転時に建設した木造校舎。あえて西欧風の交舎を避け、入母屋造の大屋根を持つ伝続的意匠で建設された。内部は畳敷の広間と折上格天井の大空間で、本学創立の趣旨を体現する建造物である。
 完成当初は、主に講義に使用し、学生たちが畳に座り机に向かって勉学に励む場であった。式典や講演会にも使用され、頭山満渋沢栄一中野正剛なども登壇した。
 1945年の戦災時には学生・教職員の尽力で焼失を免れ、唯一創立期より現存する建物である。





コチラの建物内では「国士舘創立記念展」が行われていた。


国士舘大講堂
 国士舘大講堂は、大正6(1917)年に創立した国士舘が、世田谷へ移転した大正8年に建設した木造校舎です。
 大講堂は、創立の趣旨を体現し、あえて西洋風の外観を避けて、日本の伝統的な寺院風の意匠で建設され、創立期より現存する唯一の建物です。
 以来、この地で学園の発展とともに、時を刻んできた大講堂は、国士舘の歴史そのものであり、本学のシンボル的建物として、その威容を誇っています。
 平成29(2017)年10月に、国の登録有形文化財(建造物)となり、都内最古の「講堂」として、大正期の社会的背景・風潮・教育史を知るうえでも貴重な建物です。



大講堂の建設
 国士舘は、大正8(1919)年、麻布区笄町(現在の港区南青山)から世田谷への校地移転とともに、財団法人を設立します。
 このとき、大講堂をはじめ、学園本部、道場、寄宿舎が建設されました。
 校地整備にあたっては、国士舘顧問である頭山満、野田卯太郎、田尻稲次郎の連名で募金趣意書が作成され、政財界に協力を仰ぎました。その募金活動は、特に創立者柴田德次郎の出身地である福岡県で活発に行われ、麻生商店社長麻生太吉(第92代内閣総理大臣麻生太郎の曾祖父)をはじめ、多くの支援者を得ました。
 このように福岡県の名士をはじめとする多くの支援によって、大講堂は建設されたといえます。

一大講堂竣工時の様子一
雑誌『人民』第5巻第!号に掲載された「世田谷松陰湖畔の大官殿」には、国上館全体を、都会の喧騒から離れた平和な田園のなかに聳(そび)える「大宮殿」と形容し、また大講堂については、木の香り高さや畳の青々しさなど、清々しい新築のさまが記されています。
 また、当時は西祥建築が一段的に主流でしたが、大護室は手院に見られるような「純然たる日本式」の建顔が採用されました。
 これは、大正の「松陰塾」であろうとした国上舘の「日本魂」の表れといえます。


関東大震災と大講堂
 大正12(1923)年9月1日、神奈川県相模湾北西を震源とする関東大震災が発生しました。この震災は東京の都心や横浜を中心に甚大な被害をもたらしましたが、幸いにも、世田谷地域では被害が少なかったため、都市部から多くの避難者が身を寄せました。
 国土館は、この避難者らの救援にあたりました。その様子は「大正一二年度事業報告」(『中学校設立認可申請書』)に、「震災救恤(きゅうじゅつ) 震災二際シ国士館ヲ解放シテ一般避難民ノ救恤二務ム」と記されています。大講堂は、震災被災者らの避難所として利用されました。



大講堂の修繕
大講堂の屋根は、過去に3回葺替えが行われています。
その変遷をひもといてみましよう。

一屋根の葺替え一
①大正8(1919)年 天然スレート葺きの大講堂完成
「寄附財産目録」(『財団法人設立申請書」大正8年1月)によれば、大講堂は「木造天然スレート葺」とあります。

②昭和33(1958)年頃 金属板葺きへ
昭和56年に大講堂屋根の葺替えを実施した工事業者の回顧談によれば、銅葺き以前の屋根はアルミニウム合金だったといいます。戦禍を乗り越えて、著しく劣化していた屋根は、昭和33年頃に葺替えられたと考えられます。

③昭和57(1982)年 銅板葺きの現在の屋根へ
昭和56年から昭和57年にかけて、銅葺き屋根に葺替えられました。このとき建具などの改修も行われています。



戦禍を逃れた大講堂
 国士舘は、昭和20(1915)年5月2日の空襲で、校舎のほとんどが焼失してしまいました。
 しかし、大講堂のほか、建物数棟は、幸いにも難を逃れます。
 教職員や学生・生徒の必死の消火活動を示す資料は、国土舘の理念を体現する大講堂を、戦禍から守りぬいた関係者の強い思いを伝えるものです。





国士舘の学生服




 学校の制服は、ひと目でその学生が通う学校が分かることなどから、学校の象徴ともいえます。近年では学校の、とくに女子の制服が、そのデザイン性から国内外問わず人気を集めています。
 国士舘大学では、昭和48年頃まで制服着用が学則で定められていました。昭和30年代には服装の多様化により、ほとんどの大学で制服は徐々に姿を消していきましたが、国士舘では
創立者柴田徳次郎の意向により、学生が過度に華美になることを戒め、制服を学生の正装としていました。
 ここでは、国士舘大学の制服についてご紹介します。



男子学生制服の特徴

 昭和28年に国士舘短期大学が設立されましたが、そのときの制服は黒詰襟(くろつめえり)に金ボタンという一般的なものでした。その後、昭和33年に大学が設立し、昭和35年2月に学園の制服が「服装規定」により正式決定すると、冬服は以前の金ボタンではなく、蛇腹の制服へと変更されます。夏服はチャコールグレーのズボンに白シャツでした。
 ちなみに、中学校も高等学校も同じ蛇腹の制服でしたが、学校の見分けがつくように、それぞれの制服のある箇所に特徴がありました。さて、その箇所とはどこでしょうか?

一答えは裏面にあります!



答えは
「袖口にある黒色モールの数」。
中学校はモールなし、高等学校は太いモール1本、大学は太モール1本に細モール1本でした。ちなみに教職員にも同じ蛇腹の制服がありましたが、教職員は太モール・細モール・太モールで計3本、学園の総長は太モル1本に細い金色モール2本でした。





女子学生制服の特徴

 大正6年の創立より国士舘には男子学生しかいませんでしたが、昭和30年、国士舘短期大学国文科にはじめての女子学生が入学しました。当初女子の制服はなかったようですが、男子学生と同様に、昭和35年2月に学園の制服として女子の制服も正式決定しました。女子学生の制服は、夏服は紺色またはチャコールグレーのタイトスカートに白シャツ、冬服は紺色のブレザーにスカートでした。
 とはいえ、オシャレが気になるお年頃。制服着用は学則で定められていたので、女子学生はあるものでオシャレを楽しんでいました。さて、それは何でしょう?

一答えは裏側にあります。



答えは
「靴(くつ)」と「シャツ」。
 昔から「オシャレは足元から」といいますが、国士舘の女子学生も足元からオシャレを楽しんでいたようです。
 また、冬服ではブラウスは白が望ましいとされていたものの、わりあい自由とされており、柄物や色物のシャツを着用する女子学生もいました。











国士舘創立者柴田德次郎銅像




1977(昭和52)年1月建立 制作/久保浩 題字/筆ノ石井光次郎
 柴田德次郎(1890ー1973)は現福岡県生まれ。 早稲田大学専門部の在学時より、頭山満などの知遇を得て、 有志らと青年大民団を結成、社会改良を目指した。この活動の中から青年教育を目的に国士館を創立。
 以後、多くの青少年に門戸を開き、現在の国士舘発展の基礎を築いた。正四位勲二等瑞宝章。経済学博士。
 国士館側立品周年を記念した国士館大学同窓会の事業として、卒業生および教職員有志を中心とした募金により 制作。銅像台座の中には、募金協力者の芳名録などが納め られている。
 この飼像は、創立者柴田徳次郎が学生に訓話する1965年 頃の姿で、現在もここで国士舘を見守っている。




だいぶ国士舘大学に詳しくなった・・・・。
今回はものすごい情報量だった。
次に来ることがあったらもう少し学校の雰囲気とか見たい。
来年一緒に行きたい方がいらっしゃいましたらお声をかけてくださいネ!