2020/09/26 赤坂散歩 05 転坂/氷川小学校跡/勝海舟邸宅跡/氷川公園/安藤ハザマ本社/赤坂駅

赤坂氷川周辺から赤坂駅へ向かう。
警察官をよく見かけるようになる。
また職質されたらたまらないので、こっそり通る(w
議員宿舎やら総理大臣官邸が近くにあるので、毎日のように厳重に警備してるんだろうね。



◆転(ころび)坂

坂下。



坂上



江戸時代から道が悪く、通行する人たちがよくころんだために呼んだ。一時盛徳寺横の元氷川坂もころび坂といった。






◆氷川小学校跡



碑が建っていた。






勝海舟邸宅跡



「明日に向かって」
  勝海舟·坂本龍馬の師弟像
 この地は、勝海舟が1872年(明治5年)から1899年(同32年)に77歳で亡くなるまで27年間住んだ屋敷のあった場所です。 海舟は、明治維新後 旧幕臣の代表格として維新政府の要職に在り協力していました。坂本龍馬との係りは海舟が幕府の要職に付いていた頃(海舟37歳~46歳)で、 龍馬 (26歳~31歳)は海舟を師と仰いで禁い緊密な交流があったようです。
 この交流の始まりは、海舟が威臨丸での渡米、帰国後幕府軍艦奉行就任の1862年(文久2年)海舟39歳のとき、龍馬が海舟を斬ろうと面会を申し入れ逆に感化され、 海舟の門人となり身辺警護をかってでたことからと言われております。 当時、日本国の未来を見据え大意を進めるに当って海舟と龍馬とは相反する体制下にありながら、改革を行うことが出来たのは海と繋がっている広い世界を観る目、日本国を取り巻く世界情勢の中で日本のゆくえについて日本人が一体となって事に当らなければならないことを教えたと伝えられています。
 また、海舟は軍艦奉行に就いていた 1864年2月(文久4年)英・仏・米・蘭4ヶ国艦隊の下関砲撃の中止交渉を幕府から命じられ、神戸から九州の豊後街道を通り長崎まで旅をしています。この旅に海舟は自らが主催する「神戸海軍塾」の塾生だった龍馬らを同行させています。重責を担って旅する海舟にとって龍馬に日本国の行く末を教える機会の旅であり、 当時の欧米の植民地政策の過の中にあるこの国の現状をつぶさに語り合い、後の薩長同盟大政奉還、江戸無血開城へと繋げていったと考えられます。
 海舟、龍馬の生きた19世紀末と21世紀の今をとりまく時代状況は比較にならないくらい違ってきていますが、 彼らの明日を切り開いて行く強い志とエネルギーを、 宇宙船地球丸に乗っているこれからの時代を担う世代に伝えてゆくシンボルとしての銅像でありたいと願っております。
 銅像の細部を見て頂くと、 海も龍馬も視線は、明日に向かって海のかなたに広がる世界を向いています。 また、 海舟の刀の鍔(つば)に下緒(刀のさやを帯に巻くための紐) を絡めて刀をぬけないようにしています。 剣術の達人でありながら、当時の風潮を憂い何事にも対処するに当って刀を絶対に抜かないとの心がまえを表しています。
    勝海舟坂本龍馬の師弟像を建てる会

この銅像の建立にあたっては、 「勝海舟坂本龍馬の師弟像を建てる会」の呼びかけに赤坂をはじめとする全国のみなさまからのご支援ご協力を頂き、彫刻家 山崎和国氏に製作をお願いし2016年9月 (平成28年)完成建立し港区に寄贈しました。



安房邸跡



 この地は、幕末から明治にか けて、幕臣として活躍した勝海舟が明治五年(1872年)の9歳から満76歳で亡くなるまで住んでいた屋敷の跡地です。その間、参議・海軍卿、枢密顧問官、伯爵として顕官の生活を送り、傍ら有名な『氷川清話』などを遣しました。その時の屋敷跡は東京市に寄付さ れ、平成五年(1993年)春まで港区立氷川小学校敷地として使用されていました。その後、氷川小学校が廃校となったため、その建物を生かしつつ改修を行い、平成十五年から区立特別養護老人ホーム及び子ども中高生ブラザとして使用して現在に至っています。施設内には、屋敷跡の発掘調査で出土した当時の縁の品などが展示されています。


氷川小学校銘板







◆氷川公園


赤坂地区旧町名由来板

赤坂福吉町(あかさかふくよしちょう)
 江戸時代初期には、本町の地域には福岡藩黒田家、人吉藩相良家、菰野藩土方家の屋敷がありました。元禄年間(1688~1704年)には土方家屋敷が結城藩水野家の屋敷になりましたが、その後、変化はありませんでした。
 明治5年(1872年)、福岡藩人吉藩・結城藩の三藩邸を合併して一町とし、福岡藩の福、 人吉藩の吉をとって「赤坂福吉町」となりました。福と吉という縁起の良い町名ということで、当時、人々の間で評判であったといわれています。

赤坂中ノ町(なかのちょう)
 古くは一ツ木村のうちで、谷あいの田地でしたが、承応・万治 (1652~1661年)のころに、埋め立てられて幕臣の屋敷になりました。当時から俗に 「中の町」と呼びならわしていたらしく、田地を埋立てた場所であるため、赤坂築地とも呼ばれていました。
明治5年 (1872年)、武家地を合併して 「赤坂中之町」となりました。町名は俗称の「中の町」に由来します。明治5年頃には、幕臣たちが去り、再び田地となっていましたが、次第に埋め立てられ、明治の終わりには商店街・小住宅街となりました。

赤坂氷川町
 江戸時代には一ツ木飛地のほか、盛徳寺、赤坂氷川神社などの寺社地、氷川門前、氷川社僧屋敷、大名·幕臣らの屋敷地でした。
 旧氷川小学校 (サンサン赤坂)の敷地は、元禄の頃 (1688~1704年)には赤穂藩浅野家の屋敷でしたが、元禄14年、藩主浅野長矩江戸城松之廊下で刃傷事件を起こしたため、召し上げとなっています。また、その東部には浅野長矩夫人遥泉院の実家である三次(みよし)藩浅野家の屋敷がありました。跡地に享保14年 (1729年)、古呂故が岡 (現在の赤坂四西丁目)から赤坂氷川神社が移転しています。
 明治2年(1869年)、一ツ木飛地、氷川門前、氷川社僧屋敷を合併して 「赤坂氷川町」とし、同5年には武家地と寺社地を合併しました。旧氷川小学校の所が、勝海舟邸だったことは、良く知られています。


近くにあった地図






◆安藤ハザマ本社

東証一部上場の大手ゼネコンだね。
でも、wikiで見ると(準大手ゼネコン)とあった。






赤坂駅






続く。