2021/01/21 舟渡散歩 02 北赤羽駅/浮間銀座/新河岸川橋梁/浮間橋/浮間三丁目第五アパート/北区立浮間ハイマート/浮間渡舟場跡の供養塔群

JR埼京線北赤羽駅へ移動。
浮間舟渡駅経由で都営三田線蓮根駅まで散策する。



北赤羽駅周辺を散策後、新河岸川沿いに南西へ歩く。



北赤羽駅

スタートのJR北赤羽駅
川の上にある駅なんだね!











浮間銀座

商店街♪











新河岸川橋梁

下は新河岸川
北赤羽駅のホームがある。



北赤羽ガード。
ここをくぐって反対側へ。









◆浮間橋

下は新河岸川
すぐ隣が上記新河岸川橋梁。



新河岸川橋梁側。





説明板



 荒川は江戸時代より洪水が多く、「荒れ狂う」川として知られていました。明治四十三年(1910)8月の大洪水をきっかけに大規模な河川改修事業に着手します。
 改修では、洪水時の4分の3の水量を流すことができる新しい川(荒川放水路)を開削する方式がとられ、元の荒川の流水量を調節するために岩淵水門が建設されました。
 しかしその結果、浮間は荒川と新河岸川の間に挟まれ、交通手段を渡船に頼らざるを得なくなりました。そこで浮間地域の人々が、現在の赤羽台4丁目にある東京北社会保険病院付近に駐屯していた近衛師団工兵隊へ計6千円を拠金して架橋を依頼し、昭和三年(1928)五月に幅2間、長さ65間半の木造の橋が完成しました。その記念に建てられたのが大きな碑(旧浮間橋建設記念碑)です。
 橋は昭和九年(1934)に幅8mの鋼板鋼桁橋になり、昭和15年(1940)には鉄橋に架け替えられました。しかしその橋もJR(旧国鉄)の東北・上越新幹線の建設計画に伴い再び架け替えられることになったため、旧浮間橋建設記念碑建立に関与した人々の子孫を中心に、記念碑の移設及び顕彰保存を目的とした浮間橋記念碑保存会が設立されました。碑は昭和六十年(1985)九月に現在の浮間橋脇に移設され、記念に小さな碑が建てられました。
 地元の人達によって建てられた大小二つの碑は、地域と浮間橋の関わりを永く後世に伝えています。









◆浮間三丁目第五アパート




都営住宅だね。









◆北区立浮間ハイマート




こちらは区立の住宅。
板橋区北部は団地がたくさんだねぇ。









◆浮間渡舟場跡の供養塔群




 4基の石造物は、向かって右から西国(さいごく)・秩父ちちぶ)・坂東(ばんどう)・四国八十八箇所供養塔、馬頭観音坐像供養塔、庚申待供養塔、水神宮の石祠です。このうち水神宮の石祠を除く3基は、かつては現在地より100mほど北、浮間3-7と浮間5-3の境にあったといいます。
 札所についての供養塔は、文政元年(1818)7月に浮間村の松澤伴右衛門という人物が、西国・秩父・坂東百ヶ所の観音霊場、四国八十八ヶ所弘法大師霊場を巡拝した記念に造立したものです。道行く人の助けとなるよう「右いゝつか(飯塚)・川口道」「左浮間村」という道標銘も刻まれています。馬頭観音坐像供養塔は、文化十年(1813)十一月に浮間村講中の35人が、往来する馬の安全を祈って造立したものです。庚申待供養塔は、干支(えと)の庚申の日に徹夜して健康長寿を願う信仰にかかわって、天保九年(1838)六月に浮間村講中18人が造立したものです。正面には、庚申信仰を象徴する青面金剛立像(しょうめんこんごうりゅうぞう)が浮き彫りされています。
 水神宮の石祠は、いつ造立されたかは不詳ですが、正面に「水神宮」と刻まれています。この付近にかつては渡船場(とせんば)があり、往来の人々で賑わったことがしのばれます。




 ここにはかつて荒川の渡船場がありました。渡船場はこの説明板を川に向かってやや左手から対岸の板橋区小豆沢(あずさわ)4丁目26番と27番の間を南北に通る道路へと結んでいました。明治四十四年(1911)から昭和五年(1930)にかけて行われた河川改修工事で荒川の流路が変更されたため、現在では渡船場のあった場所は新河岸川(しんがしがわ)の流路となっています。
 江戸時代後期の状況を示す「新編武蔵風土記」には、浮間村の農民が、対岸にあった耕地との往来のために設けられたものでしたが、渡船場を維持するかわりに助郷(すけごう)を免除されていたと記されています。明治初年の状況を示す「武蔵国郡村誌」には、村道に属していて、村の南方、荒川の中程にあって、人専用一艘、馬専用一艘の計二艘が運航する民営の渡船であると記されています。渡船場は浮間村が運営しており、小豆沢側の船着場も浮間村で借りていました。
 渡船賃は、村社の修復・道の修繕・分教場の費用にあてられたといいます。村民は東京に行く時に利用しました。また、浮間は桜草(さくらそう)の名所として知られていましたが、桜草の咲く頃には多くの人出がありましたので、現在の浮間橋寄りに臨時の渡船場ができました。昭和三年(1928)五月、下流に浮間橋が架設されると、渡船場は姿を消していきました。






続く。