2021/04/08 西尾久散歩 04 堀船白山神社/白山堀公園/延命招福地蔵尊/福性寺/梶原の渡船場跡/読売プリントメディア東京北工場/梶原銀座商店街

墨田川に沿ってあちこち巡りながら東へ進む。




◆堀船白山神社










◆白山堀公園



 堀船の名は、堀之内村と船方村とが合併してできたものである。江戸時代から明治22年まで、このあたりは梶原堀之内村であった。しかし、昭和7年に東隣の船方村と合併して堀船という地名になった。
 足利時代末に、大田道濯の孫であり、大田資正(すけまさ)(三楽斎道誉(さんらくさいどうよ))の子である梶原政景(まさかげ)が今のポンプ場(堀船三丁目の下水道局王子ボンプ場)あたりに屋敷を構えたと言われている。その屋敷の内= 堀の内ということで、梶原堀之内村と呼ばれていた。梶原の姓は、永禄元年(1558)、古河公方義氏の元服の時に太刀役を務め、梶原の姓を与えられたという説(『異本小田原記』)と、同4年、長尾景虎が上杉姓と関東管領(かんれい)を譲られた拝賀の時に与えられたとする説(『北条記』)がある。(永禄5年の政景の初見史料では、すでに梶原を名乗っている。)
 梶原政景は、下総国土豪で柿岡城主であり、「弓矢打物達者にて、鬼にも神にも逢ふべき器量」で、和歌、手跡・早歌・乱舞・馬上(まけ)・毬(まり)など、諸芸にも秀でていたという(「異本小田原記)。福性(ふくしょう)寺の本堂前に「地名発祥梶原塚」という標石があり、梶原塚と呼ばれている。
 船方村は、豊島の7つの村の1つで、江戸時代に船の組み仲間として有名な船頭の一族がこのあたりに住んでいたと言われている。
 町の名前が堀船になっても、梶原という呼び方はこの地に住む人の愛着や郷愁からか、梶原○○○と呼ばれるところも多いようである。








◆延命招福地蔵尊








◆福性寺









◆梶原の渡船場



 この奥の隅田川沿いには、明治・大正・昭和にかけて、対岸の宮城村(足立区)との間を結ぶ渡船場がありました。
 明治四十一年(1908)、現在のキリンビール東京工場の敷地に下野紡績の工場ができ、対岸からも人々が工場へ通勤するようになりました。そこで、両岸の
梶・·宮城地区の任民有志が出資してつくった船の発着場が、この梶原の渡船場です。
 子供の頃から父親とともに、船頭をしていた方の話によると、最初、運賃は大人一銭、子供五厘・荷車一銭五厘・自転車一銭だったそうで、この渡しができた
ことで、地域の住民の交通の便が非常に良くなりました。また、荷車という運賃があるように、駒込にあった市場に野菜を出すための交通路としても利用され、
毎日十五台以上が隅田川を船で往復していたそうです。
 第二次世界大戦中には、足立方面などに軍需工場が多くなり、工場へ通う通勤者の行き帰りの足として混雑したそうですが、交通手段の整備とともに、渡しが
使われることも少なくなり、昭和三十六年(1961)、その姿を消しました。

キリンビール東京工場?と思って調べてみたら現在は下記の「読売プリントメディア東京北工場」とのことだった。
参考
渡し碑コレクション/梶原の渡船場跡し



墨田川上流方面。



同じく下流方面。








◆読売プリントメディア東京北工場

一度中を工場見学させてもらったことがある。
2011/09/08 クラブツーリズムの旅 - ovanの社会科見学








◆梶原銀座商店街

商店街♪


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続く。