2021/11/26 立川散歩 01 立川駅/航空神社/立川市曙一丁目公園/商店街/立川小唄の記念碑/立川相互病院/立川地方合同庁舎/板谷元右衛門翁顕彰碑

立川駅到着後、ちょこっとだけ北西エリアを散歩。
航空神社を巡った後は東へ移動。






立川駅

スタートのJR中央線立川駅







風に向かって



 ミス・ビードル号と少年をモチーフにしたモニュメント。
 少年の空に対する憧れである
「自由に空を羽ばたいてみたい心」を表現しています。
作者 銅版造形作家 赤川 政由(立川在住)
かつて立川は、世界に開かれた“空の都”でもありました。1931年8月6日、真っ赤な機体のミス・ビードル号が立川に降り立ちました。当時は羽田空港は開港前であり、立川飛行場は首都空港として内外の飛行機が発着していたのです。操縦していたのはバングボーンとハーンドンの米国人2名。彼らは立川で入念な機体の整備を行い、10月4日に青森県三沢村の淋代海岸の特設滑走路から人類初の太平洋無着陸横断飛行に挑み、41時間15分の後、ワシントン州のウェナッチの丘に胴体着陸し、約5,500マイルのノンストップ太平洋横断を成功させました。
2000年3月
当クラブが主催した「ねんりんの主張」に於いて「駅を降りると座る処がなく、荷物を置く所もないのでベンチがほしい」との提案があり当クラブの40周年記念事業として、2001年1月に銅板造形モニニュメントと木製ベンチを設置しました。
2021年6月
ベンチの木材の劣化のため、環境に配慮し地元を愛する心で、東京桧原村産の槍の間伐材を使用したベンチにリニューアルしました。











◆航空神社

なぜここに「航空}?
と思って調べてみたら、こちらのページに詳しく載っていた。
立川陸軍飛行場と日本・アジア №62:知の木々舎:SSブログ











立川市曙一丁目公園











◆商店街

商店街♪
モノレール下の商店街なのだが、名前がわからなかった・・・・。






東北の桜



 マグニチュード九·○の東日本大震災は平成二十三年三月十一日に発生しました。地震による大津波は東北各地の太平洋沿岸部を襲い、約二万人もの掛け替えの宏 い命が失われました。
 ここに東北被災三県より頂いた「枝垂れ桜」の苗木を移植し、毎年三月十一日前後に、市内の子どもたちと共に清掃作業を行い「震災の記憶」を永く語り継ぎ、合わせて市民の防災意識を高めていく一助になるととを願います。















◆立川小唄の記念碑



立川小唄 (昭和5年発表)
作詞 大関五郎
作曲 町田嘉章

東京ばかりか浅川青梅
 五日市から一走り
汽車だ電車だ川崎からも
 空の都よ立川よ
☆ わたしゃ飛行機風まかせ
   舵の取りよで宙返り
  オヤクルリトセー
   ションガイナー
飛行五連隊ありゃ格納庫
 ほんに技術部さしむかい
ここは日本の飛行機の名所
  空の都よ立川よ
☆繰り返し
渡れ日野橋お茶屋が見える
 浮いて静かな屋形船
眺め懐かし秩父や御嶽
 空の都よ立川よ
☆繰り返し

立川小唄記念碑建立由来
 大正11年(1923年)立川に陸軍航空隊が開設、当初軍用だけでなく民間空港としても使用され、国内便の他、諸外国からも多くの飛行機が飛来し、昭和6年(1931年)羽田空港が出来るまで、国際空港としての役割を担い立川は「空の都」と云われ飛行場と共に発展してきた。
 この立川小唄は昭和5年(1930年)に制作、踊りと共に発表されたもので、飛行場だけでなく当時の立川の情景を27節に分けて描写し、空の都立川を謳歌し広く地域で歌われたもので、この記念碑はその内の3節を選んで刻写したものです。
 戦後、飛行場は長年に亘り米軍基地として使用されてきたが昭和52年(1977年)返還され、国営昭和記念公園を始め数々の跡地利用が進み、立川市は多摩の中核都市として大きく発展し、今やかつての立川が「空の都」と云われてきたことが消え去ろうとしている。
 この度、末永く「空の都立川」を伝えるため、かつての立川飛行場正門前のこの地に記念碑を建立する所以である。











◆立川相互病院











◆立川地方合同庁舎











板谷元右衛門翁顕彰碑



 元右衛門翁は天保13年生まれ。明治5年の学制発布に先立ち同3年、私財を投じて現立川一小の前身である郷学校を設立した立川教育の先覚者である。
 のみならず、明治22年甲武鉄道開通に当たり、現立川駅の開設に貢献し立川発展の礎を築いた人で、まさに立川の交通・産業の恩人でもある
 ここに翁の没後百年を目前にしてその遺徳を称えこの碑を建立する。











続く。