2022/11/05 船橋散歩 03 ラーメン二郎/日本大学生産工学部/八幡公園/譽田八幡神社(誉田八幡神社)/足の神様の道六神/居酒屋金さん/陸軍習志野学校 表門跡

前の日記からの続き。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2022/11/05/210000






ラーメン二郎 京成大久保

行列ができていた。
美味しいんだろうなあ。







日本大学生産工学部 津田沼キャンパス

HPがあった。
日本大学生産工学部







◆八幡公園



騎兵連隊・旅団司令部跡



 明治初頭より旧陸軍の演習が行われていた小金原は、同六年(1873年) 明治天皇行幸の際に、「習志野原」と命名されてから、周辺に軍隊が急速に創設され、それにともない拡張されてきました。
明治三十二年、日本陸軍初の快速兵団として騎兵連隊が習志野原に創設され、同三十四年には大久保に転営して、現在の東邦、日本大学付近に第十三・十四連隊からなる第一旅団と、東邦中学校・
高校付近に第十五十六連隊からなる第二旅団がおかれました。さらに、八幡公園・習志野郵便局の地に旅団司令部がおかれました。
 日露戦争(明治三十七~三十八年)の折には、両旅団が派遣されましたが、満州事変(昭和六年)・支那事変(同十二年)には第一旅団が派遣されました。この頃より軍隊の機械化がすすみ、騎兵連隊は装甲部隊に再編制されていきました。
 第二次世界大戦後、連隊跡は学校に、旅団司令部本部の建物は郵便局になり、八幡公園にあった司令部の講堂には、私立大久保保育園が開設されました。この保育園は、昭和二十四年1(1949年) 津田沼町に移管されて、本市第一号の公立保育所となり、昭和四十年、泉町三丁目に移転しました。


習志野騎兵旅団発祥の地



騎兵第一 第二旅団は 明治三十四年十二月この地に創設せられ 日本陸軍最初の快速兵団として発祥した 第一旅団に属する第十三 第十四連隊 第二旅団に属する第十五 第十六連隊は堂々と甍を連ね 大久保の地は一転して一大衛戍地となった この地習志野の名は 明治六年 明治天皇行幸して親しく軍隊の調練を天覧せられし際 将来に亙り軍が操練に励むべき地として特に命名せられたるもの いま騎兵旅団の設置を見るに及び まさにその聖旨に副い名実相伴うに至ったのである明治三十七八年日露戦争に当り 両旅団は共に満州に出征 よく機動性を発揮し 果敢善戦赫々たる戦績を収めて凱旋した尓来約三千の将兵は陣馬一体となり 日夜習志野原頭を馳駆して練武を重ね 輝く騎兵精神を培った 一面の草原は生気に満ち 連隊旅団を挙げての乗馬襲撃など正に壮観そのものであった かくて習志野騎兵旅団は陸軍の華と謳われ 地域住民の親愛と協力の下に 軍民一致輝かしい一時代を経過した満州事変の勃発するや 昭和七年第一旅団はこれに出動して各地に転戦し 引続きそのまま満州ハイラルに駐屯 さらに支那事変に活躍して偉功を樹てた この間第二旅団は終始この地に衛戍して訓練を続け また各種部隊の編成補充に任じた 時代の変遷に伴い騎兵部隊は逐次機械化の途を辿るに至り 第二旅団に昭和十六年 第一旅団は同十七年それぞれ戦車部隊に改編せられ ここに騎兵旅団の歴史は終りを告げたのである 発祥以来この地で訓練された壮丁は関東全域及び山梨長野両県下から選抜せられ その数延数万に及び 軍馬は北海道及び東北地方から補充せられ延一万余頭に達した この中には幾多の尊い戦没犠牲となった人馬があることを銘記しなければならない大東亜戦争後 習志野の地はその様相を一変し 広茫としていた習志野原も周辺の地域とともにその殆んどが都市化せられ旧兵営もその姿を変えるに至ったが この地が騎兵旅団と共に歩んだ四十年に 習志野発展史上特に意義深い一時代を画したものというべきである その由緒を記念するため 関係者有志と百余名の思いをこめてこの碑は建てられた希くは 習志野の地が永く栄光ある発展を遂げんことをと祈念し ここにその由来を誌す







◆譽田八幡神社(誉田八幡神社

別のページで!
2022/11/05 譽田八幡神社(誉田八幡神社) - ovanの社会科見学







◆足の神様の道六神








◆居酒屋金さん

絵がいいね!
徒歩鹿移動手段のない人には駅からちょっと遠いので・・・・・。







◆陸軍習志野学校 表門跡




現地では説明板など確認できなかった。
google mapのマークは上の写真のところあたり。

『陸軍習志野学校(りくぐんならしのがっこう)は、1933年(昭和8年)から1945年(昭和20年)まで、現千葉県習志野市泉町にあった帝国陸軍の化学戦(毒ガス戦)に関する研究・教育を行った軍学校である。』
第一次世界大戦では、数々の新兵器が使用され、その非人間性について非難し軍縮を求める声が広がった。
その一方で、列強各国はこの新兵器を開発又は防禦する研究を奨励し、次々に新兵器の開発を進めた。これら新兵器の中には生物兵器化学兵器も含まれていた。
学校設置の目的は「陸軍習志野学校令」によると、「軍事ニ関スル化学ノ教育並調査研究等ヲ行フ所」とあり、毒ガスの知識を普及・使用法・防禦法を調査研究する機関としている。
習志野学校は「毒ガス学校」とも呼ばれ、毒ガス兵器の開発や実戦を行う機関と思われているが、実際には、兵科の化学兵種(化兵)である瓦斯兵に毒ガス防禦法を訓練[注釈 1]する学校であり、動物実験は行われていたようだが生体実験が行われたことはないといわれている。』
陸軍習志野学校 - Wikipedia







続く。
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