2024/09/24 狛江・仙川散歩 03 えきまえ広場/弁財天池古墳1・2・3号墳/狛江教育発祥の地/駄倉橋跡/駄倉塚古墳/狛江市役所

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◆えきまえ広場






◆弁財天池古墳1・2・3号墳








◆狛江教育発祥の地

教育発祥之地
觀聚学舎は
理想を求めて
切磋琢磨し
人としての礎を
培う場なり
是先人の
導き志なれば
連綿として
後世に
継承するものなり



小学校のおもいで
 かつて、この地に小学校があった。
 私たちの小学校は、明治五年の学制発布により、泉龍寺の衆寮堂を仮校舎に観聚学舎として創立された。その後、和泉学校と改称、明治十四年にこの地を校地とした。
 明治二十二年、和泉、猪方、駒井、岩戸、覚東、小足立の六ヶ村が合併して狛江村が誕生し、狛江村立尋常狛江小学校となった。三十年には高等科ができ、狛江尋常高等小学校となり、村の発展とともに敷地を広げ、桜の木が植えられた。
 昭和十六年、小学校は狛江国民学校となる。二十年五月二十五日夜半の空襲により校舎は全焼し、桜の大木七本も焼失した。
 戦後の昭和二十二年、新しい学制が施行され、狛江小学校となり、昭和二十五年、狛江第二小学校の開校に伴い、狛江第一小学校と校名を改めた。
 昭和六十二年、狛江駅北口再開発事業のため、この地にあった小学校は現在地に移転した。
 観聚学舎から百三十年、ここで学んだ多くの子どもたちの胸に、いろいろな思い出をきざんだのである。
 そのことをいつまでも大切に残しておこうとの思いから、この小学校を卒業した人たちが相談して、思い出の中にある桜の木を植え、記念碑を建てた。








◆駄倉橋跡



 六郷用水に架かる駄倉橋がここにありました。
 駄倉橋は、何度か架け替えられましたが、 明治42年に造られた橋は、アーチ橋で、 「めがね橋」 と呼ばれ人々に親しまれました。
 六郷用水は、慶長2年(1597) から16年かけて徳川家康の命により代官小泉次大夫吉次によって造られた灌漑用水路(かんがいようすいろ)で、多摩川の五本松上流辺りから取り入れ大田区まで全長約23kmに及びます。
 この辺りの六郷用水は、 昭和40年に埋め立てられ、同時に駄倉橋も道路下に埋め立てられました。
 「だくらはし」と刻まれた親柱(おやばしら)がその名残をとどめています。







◆駄倉塚古墳

別のページで。
2024/09/24 駄倉塚古墳 - ovanの社会科見学






◆狛江市役所


感謝の碑

 平成十六年十月二十三日午後五時五十六分 静寂を破る轟音とともに 川口町を震源とする新潟県中越地震が発生し 震度計観測史上初の最大震度七を記録 豊かな自然と平穏な暮らしは一瞬にして崩壊し六呂の尊い命が奪われ全町が壊滅的な被害を被る未曾有の大惨事となりました
 地震発生直後から伯江市の迅速かつ献身的な支援活動と心温まる励ましにより 私たち川口町民は震災から立ち上がり復興への途を歩み始めることができました
 ふるさとを好都市提携二十周年を迎え震災三周年を機に 川口町民は恋愛に満ちる旧江市の皆様に対し真摯に感謝の意を表し、友好の絆を町史に深く刻み後世に示するためここに建碑します。






続く。
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