『創建年代は不明である。ただ江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿』によれば、開山は岳応守英とし、1644年(正保元年)に寂していることから、その頃までには既に存在していたものと推測される。また一説によれば、臨済宗の宗祖千光国師栄西が1206年(建永元年)に創建したという異説も伝わっている。
かつては幼稚園「調布るんびに幼稚園」を運営し、幼児の教育にあたっていた。しかし2022年(令和4年)に閉園した。 』
金龍寺 (調布市) - Wikipedia
建永元年(西暦1206年)明庵千光国師栄西禅師(中国宋ーより茶の種子を持ち帰り、京都宇治の里に広めた僧としても有名な学僧)により開基された当山は、初め金子弁財天社内に安置、南光坊と称する堂字であった。治承の頃、源義經弁慶以下を従この地に来た。梶原景時の讒訴により奥羽落託の途次である。この時、一行は弁財天に休し前途の恙なきを祈り、義經巳下斉戒して池水を以て大般若四十五軸を書写した。のちにその池を写經の池と称し、山号を写山と称した。
文禄三年 世田谷勝光院六世乾晨寺三世岳応守英大和尚により曹洞宗となった。往時、寺の裏に五本松と呼んだ大老松があり 鴻が巢籠りをしていたが、慶安二年徳川三代将軍家光が狩猟の途次、その光景を見て奇とし当寺に休憩して「深谷山」の号を附し、またその歓待に朱印を寄せた。当時のままの朱塗り山門が残存している。
また境内にある閻魔十大王の石像は、源頼朝の祈願によるもので、現在も十王街道(川越から鎌倉街道に出る拠点)の名称が残っている。寛文五年再建の時、山号を大雲山と改め、諸堂宇尽く現在地に移った。
星霜七百有余年を經、機を得、昭和四十六年旧堂を廃し、境内池水共々新装し、以て檀信徒帰依の根本道場となした。
◆薬師如来像
◆イチョウ
定
何事によらず よろしからざる事に大勢申合せととうをとなえととうして強いて願い事企てるを強訴といい或いは申合せ居町居村立退くを飛散と申す堅く御法度たり若右類の儀これあらば早々其筋の役所へ申出べし御褒美下さるべく事
定
一、切支丹宗門の儀は是御制禁の通り固く不相守事
一、邪宗門の儀は固禁止の事
◆道祖神
◆地蔵菩薩
◆釈迦牟尼如来像
◆石塔
阿弥陀尿来/不動明王/大日如来/勢至菩薩/普賢菩薩/文殊菩薩/虚空蔵菩薩/千手観世音菩薩
場所はコチラ