2025/01/19 武蔵国府跡






武蔵国府の国司館(こくしのたち)復元模型
この復元模型は、 武蔵国府の国司館の8世紀前半の姿を推定復元したものです。 四面に廂(ひさし)がつく格式の高い建物である主殿(しゅでん)を中心に、脇殿(わきでん)、付属建物を10分の1のサイズで復元しました。 主殿の前の広場では、国司が赴任した時の儀式が行われている様子を再現しました。 『武蔵国府スコープ』 (VR映像)も合わせてご覧ください。
※主殿左側の色の異なる表示は、 関連建物 (竪穴建物) 跡の範囲を示したものです。






国史武蔵国府跡(国司館地区
 ここは、今から1300年ほど前に武蔵国府の国司館があったところです。さらに、今から 430 年ほど前に、 徳川家康の府中御殿も置かれた府中市の歴史を象徴する国の史跡です。 保存・整備にあたっては、 発掘調査の成果をもとに、 国史跡の指定を受けている国司館跡を中心に整備を行いました。

古代武蔵国府と国司
古代武蔵国の首都的機能を持った国府
 武蔵国府は、 飛鳥~奈良時代の初め頃(7世紀末~8世紀初頭)から平安時代の終わり頃(11世紀代)にかけて、 武蔵国を治めた行政府で、 政治・経済・文化の中心として栄えていました。国府域は、東西約 2.2km、南北最大1.8kmに広がり、 その中央 (現在の大國魂神社境内と東側)には、方形に区画された国衙域があり、 荘厳な建物が整然と建ち並んでいました。

古代武蔵国府の国司
 ここには、都から武蔵国国府に赴任してきた国司の執務室兼居宅がおかれました。 現代で言えば、 東京都知事の公館にあたります。 発掘調査の成果により、国司館は7世紀後半~8世紀前半に造営されたと考えられています。

発掘された国司
 国司館跡は、 造営当初、東西棟の建物が2棟建てられました。その後の奈良時代前半には、 東西棟の四面廂(しめんびさし)建物の主屋 (正殿、桁行5間× 梁行 4間) と南北棟の副屋 (脇殿、桁行8間×梁行3間) が真南北、 真東西で建てられていることから、 秩序ある配置をもって造営されていることがわかりました。
 ここは、 国史武蔵国府跡 (国衙地区) の南西側に位置し、国衙中枢地区との密接な関連がうかがえます。 ここから初期の国司館と考えられる建物群が発掘されたことは、武蔵国府成立期の状況や日本の古代地方行政組織の成り立ちを解明する上で、とても重要な意味があります。

徳川家康府中御殿跡
発掘された徳川家康府中御殿跡
 古代国司館跡の西側からは、 発掘調査によって、掘立柱建物跡、柵跡、厩(うまや)と推定される建物跡、大型石組井戸跡などが発見されました。 さらに、 その井戸跡から、 江戸時代前期 ( 17 世紀前半)のものと考えられる三葉葵紋鬼瓦が出土したことなどから、この場所に徳川家康が滞在した府中御殿があったことを特定できました。

江戸初期の府中御殿
 府中御殿は、 1,590年(天正18年) に造営されたと考えられ、江戸を中心に設置された数ある御殿のなかでも早い段階に建設されたものです。

徳川家康の枢が逗留
 御殿は、家康、秀忠、家光の三代にわたって、 鷹狩りの宿舎等として使われました。 特に、 1,617年(元和3年) に家康の霊柩(れいきゅう)が久能山から日光に移葬される際の逗留と法要の場となったことが重要です。

古代の国司館と家康御殿
 江戸時代後期の地誌 『武蔵名勝図会』 に、 家康が 「府中は古えより府庁の地と兼ねて聞召されければ、その旧地へ営むべき旨・・・」 と御殿造営を命じた経緯が記されています。 家康は、新たな領主となった武蔵国において、 領国支配の正当性を示すうえでも、古代武蔵国国府 (国司館) があったこの場所に御殿を築くように命じたものと考えられます。 古代の国司館と徳川家康の府中御殿がともに同じ場所にあり、遺跡として現代まで保存されてきたことは、とても重要なことです。








◆入口





府中観光協会のHP
https://www.kankou-fuchu.com/?p=we-page-entry&spot=239773





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