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◆天沼弁天池公園・弁天社・
天沼弁天池公園は杉並区立郷土博物館(分館)もあり、来たことがある。
2020/10/30 杉並天沼散歩 04 天沼新生会/碧雲荘跡/天沼弁天池公園/杉並区立郷土博物館(分館)/弁天社/天沼もえぎ公園/天沼八幡神社 - ovanの社会科見学
桃園川
天沼弁天池公園はかつて桃園川の源流だったとのこと。
お散歩会では写真の奥に向かって流れていたと話されていた。
碧雲荘 太宰治が澄んだ下宿屋
太宰治が住んだ下宿屋、碧雲荘(へきうんそう)は、大工の棟梁田中豊作氏によって建てられた自宅兼下宿屋です。昭和10(1935)年に建築され平成28(2016)年3月までここ(杉並区天沼三丁目19番22号)に建つていました。昭和初期、中央線に沿って郊外住宅地が広がりましたが、その頃の高級下宿の特徴をよく残す建物でした。
小説家・太宰治が昭和11(1936)年11月から翌年6月までの約七ヶ月間、二階の八畳間で最初の妻・初代と暮らしていました。平成29(2017)年4月、碧雲荘は、「ゆふいん文学の森」(大分県由布市湯布院町川北字平原1354—26)に文化交流施設として移築復原されました。
太宰治
小説家。本名、津島修治(つしま・しゅうじ)。
明治42(1909) 年6月19日、青森県北津軽郡金木村(現見·五所川原市)生まれ。
戦中から戦後にかけて活躍。人間の弱さや苦悩を描き、多くの読者の共感を得ました。
代表作に「人間失格」、「斜陽」などがあります。「走れメロス」は、国語の教科書にも採録されています。自殺未遂を繰り返したり、薬物中毒に苦しんだりしながらも、数多くの名作を生みだし、最後は、東京都北多摩郡三鷹町(現·三鷹市)の玉川上水に入水し、発見された昭和23(1948)年6月19日は、39歳の誕生日でした。
太宰治の天沼時代
太宰治は、師と仰いだ井伏鱗二を慕って、天沼に住みました。
【第1期天沼時代】昭和 8(1933) 年 2月~昭和10(1935)年7月:約2年4ヶ月間
最初の創作集『晩年」に収められている佳作が次々と書き継がれ、新進作家として充実した良い時代でした。天沼は、太宰治と名乗って出発した最初の拠点であったと言っていいでしょう。
【第2期天沼時代】昭和11(1936)年11月~昭和13(1938) 年9月:約1年10ヶ月間
麻薬性鎮痛薬中毒が完治し、東京武蔵野病院を退院した太宰は、碧雲荘に入居し、入院中の出来事を題材に「HUMAN LOST」 (後の「人間失格」 の原形)を執筆しました。しかし、自分の入院中の妻の過ちを知らされ、自殺未遂後、妻と離別し下宿屋鎌瀧に移り、この経験をもとに「姥捨」を書きます。
総じて虚無的なスランプの時代でしたが、このつらい時代があったからこそ、その後の作家としての成熟があったと言えるでしょう。
太宰治「富獄百景」 初出「文体」昭和14(1939)年2月号、3月号
三年まえの冬、私は或る人から、意外の事実を打ち明けられ、途方に暮れた。その夜、アバートの一室で、ひとりで、がぶがぶ酒のんだ。一睡もせず、酒のんだ。あかつき、小用に立って、アバートの便所の金網張られた四角い窓から、 富士が見えた。小さく、真白で、左のほうにちょっと傾いて、あの富士を忘れない。
◆アマヌマコムギ
秘密基地みたいなお店。
参考
アマヌマコムギ | 天沼新生会ホームページ
◆杉並区立天沼小学校(杉並区立杉並第五小学校跡)
調べてみると第五小学校は平成20年3月で閉校したって書いてあった。
天沼小学校は杉並第五小学校と若杉小学校が統合してできた学校。
参考
杉並第五小学校
学校概要・沿革 | 杉並区立天沼小学校
◆庚申塔
google mapには載っていなかった。
赤丸の所辺りにあった。
◆日大二高通り
商店街♪